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“わたし”を“死”から蘇らせた“父の霊”があなたたちの中に宿っているのです。

おそらくあなたたちは、この言葉の重要性に気づいていないでしょう。しかしそれは同じ“霊”であり、“霊”の中に分割はありません。唯一の“霊”が多数の“霊”の中に現れ、多数の“霊”が唯一の“霊”の中に現れているのです。

わたしが“わたし”自身の生命の中に完全に見たのはこの強大な“力”であり、その“力”を認めることによって、“わたし”の内に住まわれている“父なる神の霊”の“力”を用いることができたのです。わたしを死から蘇らせてくださった“父の霊”は、あなたたちの内にもおられるのです。

あなたたちの肉体感覚が不調や痛み、死の兆候を示したら、自分の内に留まっておられる“父の霊”を思い出しなさい。

「“わたし”はある」という“力の言葉”によって、それが現れるようにしなさい。あなたたちは「“わたし”はある」という言葉の意味を十分に理解していますか。

その意味を知らなければ、“実在”の内に「“わたし”はある」という“言葉”を発することはできません。「“わたし”はある」という言葉の意味を理解したとき、あなたたちは“力の言葉”を学んだことになるのです。「“わたし”は“命”である」。“神の命”が“わたし”の中で生きているがゆえに、“わたし”は生きています。“命”は神であり、神は“命”です。

ゆえに、“わたし”の“霊”はあなたたちの死すべき肉体を蘇らせ、“感覚というサタン”はあなたたちに屈服するのです。(コリントの信徒への手紙二5章4-11節、ヨハネによる福音書6章63節)

感覚というサタンは、内なる“霊”の内在的な力こそが本当の“力”であるという真の“真理”から、常にあなたたちを幻惑してきたのです。

感覚は、外側から事物を明らかにしますが、“神の霊”は、内側から“真理”を明らかにします。この“真理”がなければ、あなたたちは無力です。

死すべき感覚は、物事を外側からしか見ることができず、見てもそれが何であるかは分かりません。それは知性のみの推理です。インスピレーションは受けていません。インスピレーションは“内なる霊”からやってくるものだからです。