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“キリストの声”は広大無辺に届きます。はるか彼方に、また足下に、至るところに届きます。“キリストの声”は “遍満”しているからです。“父”がおられるところはすべて“わたし”がいます。“わたし”がどこにいようとも、“父”は常に“わたし”と共におられます。
(ヨハネによる福音書 10:30、ヨハネによる福音書 14:9-11、マタイによる福音書 28:20、詩篇 33:9、139:7-10)

“大いなる真理”とは、“全能の神”こそがすべてのすべてであり、万生万物は神により、 “神の子キリスト”によってのみ存在しているということです。
(コロサイの信徒への手紙 1:16-17、ローマの信徒への手紙 11:36、ヨハネ福音書 1:1-3, 14、イザヤ書 45:5-7、創世記 1:1、申命記 6:4)

世の平安は“キリスト”の内に宿っており、すべての人びとの魂が“キリストの命”(the Christ Life)に気づき、父なる神の“愛、美、強さ、叡智、力”を現すことを待っているのです。
(ヨハネによる福音書 14:27、コリントの信徒への手紙一 13:4-7、エフェソの信徒への手紙 2:14、イザヤ書 9:5-6、マタイによる福音書 5:9、ヨハネ黙示録 21:1-4)

“父”のみが生き給い、“父”は“愛”であり、“叡智”であり、“平安”であり、唯一の“実在”であるというこの“真理”を認め、受け容れ、それをあるがままに現してさえいれば、あなたたち一人ひとりのすべてに常に“平安”と“愛”が留まり続けます。
(ヨハネの手紙一 4:16、ヨハネによる福音書 14:27、箴言 2:6、エフェソの信徒への手紙 4:6)

“キリストの力”は、気づき、実感し、さらに、“主なる神の臨在”を深く認識するための静けさに浸る時間を経ることによって、あなたたちの中で育まれていきます。
(詩篇 46:10、145:18、エフェソの信徒への手紙 3:16-19、ヨハネによる福音書 14:23、マタイによる福音書 6:6)

“真理”を悟るとは「神は “今ここ”に現存している」ということを知ることです。「“わたし”と“父”は一つである」――“父”は“わたし”よりも偉大ですが、“父”と“わたし”は一体となって働いています。“わたし”は“父”なしには何もできませんが、“父”と共であれば、“父”のなすすべてを行うことができます。なぜなら“わたし”と“父”は一つだからです。
(ヨハネによる福音書 5:19,20,30、8:16,19、10:30、14:6,7,9-12、15:5、イザヤ書 43:10、コロサイの信徒への手紙 2:9)

まず認識がなければなりません。それに続いて深い理解と静寂の時間が訪れます。そうすることによって、 “わたしの力”があなたたち自身の意識の中で育まれていきます。しかし、全宇宙に現れている“意識”はただ一つの“意識”であり、それは“命”そのものである“意識”です。“命”はその栄光を意識的に顕現させることができるあらゆる形態を生み出しました。
(創世記 1:1-3、出エジプト記 3:14、詩篇 46:10、104:24、ヨハネによる福音書 1:4、10:30、マタイ福音書 6:6、ヨハネの黙示録 4:11)

“命”は、“命”自身が自ら気づいていることを現すことができるように、人間の魂と体を創造したのです。あなたたちがこのことを本当にわかったとき、あなたたちは“キリスト力”(the Christ Power)を自分の生活の中に発動するようになります。
(創世記 1:26-27、詩篇 8:5-6、ヨハネ福音書 1:4、14:12,20、コリントの信徒への手紙一 6:19、コロサイの信徒への手紙 3:10)

あなたたちは物質的な生活や仕事から離れ、しばし、“神の国”で安らぐべきです。あなたたちは着実に成長しており、あなたたちの生涯において、いつでも現れようと待機している“キリストの真の命と力”が展開しつつあることを知ることができます。
(マタイによる福音書 11:28-30、マルコによる福音書 6:31、出エジプト記 20:1-20、詩篇 23、イザヤ書 30:15)

沈黙のうちに待ちなさい。 “キリスト”が本当に自分に現れたらどうするか、それは自分にとってどんな意味があるのか、この姿勢を堅持しなさい。このようなやり方によって着実な成長を遂げていくことができるのです。
(出エジプト記 20:18-21、列王記上 19:9-13、詩篇 23:1-6、46:10、62:5-6、マタイによる福音書 5:3-48、6:1-18,25-34、7:1-6,12-27)