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神には善も悪もありません。神は今の今、完全無欠に現れています。もしあなたたちが全知全能の神は善であり、悪もまた存在すると言うならば、あなたたちの判断はまちがっています。普遍的な善の中に、どのようにして悪が存在することができるのでしょうか。
(出エジプト記 3:14、ヨハネの手紙一 1:5、ヤコブの手紙 1:17、マタイによる福音書 5:48、申命記 32:4、イザヤ書 45:7)

こうして、人類は“愛”を現すための媒体となります。これこそが、真の“生き方”の科学なのです。
(ヨハネの手紙一 4:11-12、マタイによる福音書 22:37-39、ヨハネによる福音書 13:34-35、15:12-13、コリント人への手紙第一 13:13、詩篇 133:1)

“愛”は身体に流れている“生命エネルギー”です。“愛”は心の内なる大いなる力に満ちた熱情です。“愛”はすべての生ける魂を保護する守護者です。“愛”はあらゆる階層の生きとし生けるものに貫流しています。“愛”はすべての神聖なる行為の基礎であり、“人類”の救いです。
(ヨハネの手紙一 4:7-14、コリントの信徒への手紙一 13:1-13、申命記 6:5、ヨハネによる福音書 15:13、詩篇 23:1-6)

恐怖とは、理解の欠如によって自我が引き起こしてしまう思いの力であり、魂と体を貫流している生命の流れを一時的に妨げる影響があります。
(テモテへの手紙二 1:7、フィリピの信徒への手紙 4:6-7、申命記 31:6、イザヤ書 41:10、マタイによる福音書 6:25-34、ヨハネによる福音書 14:27)

苦境に立たされても“父”に見放されたとは思わないでください。“父”はあなたたちをさらに完全な存在とし、“父の創造力”を発揮するための、より完璧な媒体にされようとなされているのです。
(ヘブライ人への手紙 12:5-6、ヤコブの手紙 1:2-4、ローマの信徒への手紙 5:3-5、8:28、詩篇 34:18、ヨハネによる福音書 14:27、マタイによる福音書 6:25-34)

自分が“主”であると知ったら、あなたたちは恐れますか。“キリスト”が自分の“真我”であると知っていたら、恐れるでしょうか。神のみが存在し、神が “ご自身”を現されているのであり、神によって創られたあなたたちは決して神から離れることができないと知ったら、あなたたちは恐れますか。
(ヨハネによる福音書 14:20,27、ヨハネの手紙一 4:18、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、ローマの信徒への手紙 8:38-39、詩篇 23:4、イザヤ書 41:10)

これらの言葉を十分に理解したとき、謎は無くなります。理解されれば、神秘さは消えてしまうのです。
(ヨハネによる福音書 14:26、コリントの信徒への手紙一 2:7、13:12、コリントの信徒への手紙二 3:14-16、マタイによる福音書 13:11-15、コロサイ人への手紙 1:26-27、エフェソの信徒への手紙 1:9-10、ペトロの手紙一 1:10-12、テモテへの手紙二 3:16-17)

十字架を見つめ、それがあなたたちにもたらす教訓を思い描きなさい。鞭(むち)を打たれ、手足に釘を打ちつけられ、十字架に架けられても、あなたたちは“父”を最後まで否認しませんか。あなたたちの唯一の力は、あなたたちを“ご自身”のように“愛”として創造された御方、常にあなたたちと共にある神 “ご自身”、すなわち“愛”にあるのです。
(ヘブライ人への手紙 12:2、マタイによる福音書 27:46、ヨハネによる福音書 3:16、15:9、ヨハネの手紙一 4:19、ローマの信徒への手紙 8:28、詩篇 23:1、申命記 31:6)

“油注ぎ”(聖別、洗礼)とは、神に生命・生活を捧げるということです。そうすることによって、“神のみによって造られた神殿” (体)の中で、“キリスト”が目覚めるのです。
(創世記 28:18、31:13、35:14、出エジプト記 29:1-9、40:9-16、レビ記 21:1-12、サムエル記上 16:1-13、ヨハネによる福音書 1:41、2:19-22、3:5-6、コリントの信徒への手紙一 3:16-17、ヘブライ人への手紙 10:19-22 )

この“愛”が自己の内にあるのだと認識したとき、あなたたちの内から強大なる“力”が湧き上がって来るのです。外から来る力など、まったく何もありません。
(ルカによる福音書 17:21、コリントの信徒への手紙一 3:16、ヨハネによる福音書 14:23、マタイによる福音書 22:37-39、ヨハネの手紙一 4:19-21、詩篇 42:1-2)