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書物も言葉も文字も、すべてそれ自体には何の価値もありません。それらは“霊”が思考を不可視の世界と繋ぎ、感覚の領域を突き破る手段として言葉を用いたときにのみ価値が生じるのです。(箴言 18:21、ヨハネによる福音書 6:63,14:26、コリントの信徒への第一の手紙 2:10-14、ローマの信徒への手紙 10:8-10、ヘブライの信徒への手紙 4:12)

このように言葉とは、あなたたちが内側に発見する高価な真珠を包み隠している外側の殻に過ぎません。あなたたちが自分の想いの内にある言葉を取り出して、たとえば「“わたし”はある」、「“わたし”は“命”である」と言うとき、これらは死すべき感覚を通して表現されますが、これらの言葉は永遠にして常在である霊的な状態に蘇ることができるのです。(ヨハネによる福音書 1:1,17:17、コロサイの信徒への手紙 1:15-17)

したがって、あなたたちが“聖なるもの”と称する『聖書』を読むときには、あなたたちは『聖書』の中にある言葉を用い、それらの言葉を霊的に高めることができるのです。たとえ死すべき目で見、死すべき心(想念)で読んだとしても、本来、あなたたちに備わっている“霊”の“力”によって、あなたたちはそれらの言葉を死すべき肉体人間の理解を超えた霊的次元に蘇らせることができるのです。(ヨハネによる福音書 6:63,14:26,16:12-13、コリントの信徒への手紙一 2:10-13、エペソ人への手紙 1:17)

“聖典”は、“命の法則”とその“法則の正しい用い方”を教えるために、“霊”の導きによるインスピレーションによって書かれてきたものです。(詩篇 40:8、ヨハネの福音書 17:17、テモテへの第二の手紙 3:16、ヘブライの信徒への手紙 4:12、ペトロの手紙二1:21)

ゆえに、“わたし”は律法を滅ぼすためではなく、律法を成就するためにやって来たのです。“命”を豊かに満たし、“命”が人の肉体に現れることを示すためです。“キリスト”は“子”の中に生き、“子”を通して“ご自身”を現す“無限の父”の栄光を、肉の身に現すことができることを証明するためなのです。(マタイの福音書 5:17-18、ヨハネの福音書 10:10,14:9)

“ご自身”の内に“命”をもち給う“父”は、その同じ“命”を、“子”を通して現されたのです。ゆえに、“子”は“父の命”、“父のご意志”を現すのです。(ヨハネの福音書 5:26,10:30,14:6)

“わたしの言葉”は“命”に溢れ、強力です。しかし蜜よりも甘いのです。(詩篇 119:103、ヨハネによる福音書 6:63、ヘブライ人への手紙 4:12)

“父”が“わたし”に与えてくださる“言葉”は、世の人の理解を絶した「“父の愛”の生ける“言葉”」です。“父の言葉”は生きている“力”です。 “父の愛”は常に臨在しているからです。(ヨハネの福音書 6:63,15:7)

あなたたちの誰であっても、“霊の力”を感じ、それをはっきりと認識し、それによって語ることができるならば、あなたたちの語るその言葉には力があります。“天”においても“地”においても、すべての力が“わたし”に与えられているのです。(出エジプト記 4:12、サムエル記上 10:6-10、エゼキエル書 3:1-4、イザヤ書 59:21、マタイによる福音書 28:18、ヨハネによる福音書 14:12-14、ローマ人への手紙 10:8-10、ヘブル人への手紙 4:12)

“父の光”から隠れている被造物はありません。すべてのものが父の目には裸で、さらけ出されているのです。(ヘブライ人への手紙 4:13)