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(十字架につけられてから)8日後、わたしの弟子たちが全員集まっていて、トマスも一緒にいました。わたしは彼の手を取ってわたしの脇腹に押し当て、わたしの手足を見せました。トマスは圧倒され、「主よ!わが神よ!」と叫びました。(ヨハネによる福音書20章24-29節)

死と呼ばれる体験の後にも人は生き続けることを知り、彼は圧倒されたのです。ここにすべての“力”の秘密があります。しかしそれを十分に理解できる人はほとんどいなかったのです。

このことを悟ることによって、あなたたちの内在の“キリスト”に、 “キリストの”力が宿るのです。ゆえにわたしはこれを自分の仕事の中でもっとも重要なものとして位置づけたのです。それは、この世界というものは、“内なるキリスト”を開花させるために用意されている準備段階にすぎないことを示しています。この悟りこそがあなたたちに必要なものであり、それによって、天においても地においてもすべての“力”があなたたちに与えられるのです。

トマスは見たために信じました。しかしわたしは言っておきます。「“わたし”を見ることなく信じる者は幸いです」(ヨハネによる福音書20章29節)

神が“命”の息を吹き込まれたものは決して死ぬことはありえません。 死を信じる死者のみがその死を葬るのです。“生けるキリスト”に死はありません。(講話3-78、9-35、創世記2章7節、マタイによる福音書8章22節、22章32節、ルカによる福音書9章60節)

もしあなたたちが目を内側に向け、わたしが今見ているものをあなたたちの目を通して見ることができるならば、あなたたちの理解は一層深まるはずです。

そうです。“生ける神のキリスト”という新たな悟りによって、あなたたちの目は見、あなたたちの耳は聞くことになるのです。

倦(う)み、疲れた者は、これまでに決して得られなかった安息を味わうでしょう。

地上で苦しみ、彼らのゲッセマネの門を通過した人びとは、おそらく年老い、衰弱した、地上にいたときの自分の状態をそのまま記憶していますが、それは捨てなければならない心(想念)の中の思い込みに過ぎないことに気づくでしょう。しかし魂は一時的に傷ついています。彼らは深い眠りに移行し、魂は眠ります。そうして、“キリストの実在”の中に目覚めます。彼らは若返り、傷ついた記憶となったすべての状態から解放されます。

けれども、もし彼らが望むならば、彼らが誰であるかを地上の人びとに示すために、生前の状況を再現することもできるのです。しかし彼らは内なる世界に戻るやいなや、直ちにそうした状態は捨て去り、“キリスト”の実現の中に、すなわち“神の完全無欠に生きるのです。