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論理を超えた「わかる」というものがあります。それは言葉での説明や観念を超えた「わかる」ということです。どんな観念や言説も悟りという理解が伴っていなければ、単なる言語に過ぎないからです。

“わたし”は“実在”、 “生き、存在している実在”を明かしているのです。観念によって“実在”を創造することはなく、考えや言葉を語ることによって理解することもできません。“実在”に対してあなたたちのハートを開いたとき、“実在”ではないものすべてを見分けたとき、そのときに初めて“それ” を理解できるのです。

それはあなたたちに自由を与えます。真実なるものを現す自由を与えます。 “わたし”がやって来たのはそのためです。すべての虚偽からあなたたちを自由にするためにやって来たのです。

“実在”は観念ではなく、言葉ではなく、信念や信仰でもなく、あなたたちの想像の産物でもなく、想念の中で思いつくようなものでもありません。“実在”はすでに完全であり、生けるものであり、今の今、自らを現しています。それは存在する“力”のすべてです。それは“常在の命”であり、その中には過去も未来もなく、ただ“永遠の今”があるのです。

“愛”の父を知るためには、たえまなく“愛”である父について考えなければなりません。そうすればあなたたちのハートは宝の蔵になります。

神についてじっくりと考えることは時間の無駄だと想っている人がいます。しかしわたしは、あらゆる被造物の背後に働いている大いなる力について、あなたたちが深く想いを巡らせることを強く勧めます。それらに関係しているすべてを見分けることによって、“それ(神)”を感じ、“それ”を悟りなさい。

“神の愛”の温もりと、その“創造力の英智”を感じ始めるにつれ、あなたたちは、自己自身が“実在”に属していることを感じ始め、その“愛と叡智”を現すようになるのです。

それでは、神について考え、わたしたちやすべての被造物を通じて神ご自身を現されるすべての驚異のやり方について想いを巡らしてみることは、価値のないことなのでしょうか。

これはあなたたちにとってとても大切なことであり、深く熟慮すべき価値のあることです。“わたし”は道を知っているのです。ゆえに、「“わたし”の足跡を辿りなさい」と言っているのです。

真の啓示は、あなたたちのハートと一体となって鼓動する“愛の神聖なるハート”から紐解かれるものでなければなりません。それほどまでに父は身近におられるのです。常に“わたし”の中に留まり給うのは父であり、父が“ご自身”を啓示されておられるのです。