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ここには最もすばらしい顕現があります。これを単なる奇跡と言う人もいるでしょうが、実際には奇跡ではなく、一つの“個の生命”が、他の“意識”を通じて、自己自身に現れているのは“唯一無二の命”であることに気づくという表現にすぎません。

(エフェソの信徒への手紙 4:6、創世記 1:27、詩篇 139:13-14、ヨハネ福音書 14:20、コリントの信徒への手紙一 3:16)

「“わたし”はある」(I AM)――この“言葉”は、あなたたちを刈り込みます。

(出エジプト記 3:14、イザヤ書43:10、ヨハネによる福音書 8:24,28,58、13:19、14:6、15:2,5、18:5-8、ヨハネの黙示録 1:8,11、2:8、3:14、22:13)

あなたたちは今こそ、父なる神以外に“生ける存在”はないことを悟るでしょう。万生万物の“父”である神とその“霊”は、すべての生きとし生ける魂に宿っているのです。 “わたし”はその“霊”なのです。

(ヨハネ福音書 4:24、14:10-11,26、コリントの信徒への手紙一 3:16、15:45、ローマの信徒への手紙 8:9、エフェソの信徒への手紙 4:6、創世記 2:7、詩篇 104:30)

“キリスト”に分離はありません。すべてを生かしている“唯一の命”に分離はありえません。神は“ご自身”を分割されていません。“ご自身”を個々の命として現されていますが、分割はされていません。それは統一された全体の中の、個としての存在なのです。

(ヨハネによる福音書 10:30、17:21-23、コリントの信徒への手紙一 8:6、エフェソの信徒への手紙 4:4-6、コロサイの信徒への手紙 1:17、ローマの信徒への手紙 8:38-39、申命記 6:4、イザヤ書 43:10)

“キリスト”だけが、“実在”から語る力を持っています。ゆえに、“キリスト”の名によって語りなさい。そうすれば、あなたたちの“言葉”があなたたちのもとに空しく戻って来ることはありません。

(ヨハネ福音書 14:6,13-14、コロサイの信徒への手紙 3:17、イザヤ書 55:11、マタイ福音書 10:20、使徒言行録 3:6、ヤコブの手紙 1:5、箴言 16:24)

見よ、これこそが死んだにもかかわらず蘇り、失われたものの、今や探し出された“わたし”の息子なのです。

(ルカの福音書 15:24、マタイ福音書 20:19、エフェソ人への手紙 2:4-5、ヨハネの福音書 5:24、サムエル記第一 2:6、ヨブ記 19:25)

“キリスト”は決して死すべき感覚や外界の事物に反応して語ることはありません。“キリスト”は常に神から語ります。あなたたちもこれを学ばなければいけません。そうすることによって外界を静めることができます。沈黙のうちに語られる静かな声は、人の手ではなく“神ご自身”によって造られた“神殿(身体)”の内から現れるのです。

(詩篇 46:10、ヨハネによる福音書 8:28、14:23、列王記上 19:12-13、コリントの信徒への手紙一3章16節、コリントの信徒への手紙二 5:1、ヘブライ人への手紙 1:1-2、ハバクク書 2:20、ヨハネの黙示録 1:10-12、5:1-7)

神は“ご自身”から分離されたものは何一つ創造されていません。ただ“わたし”を通して“ご自身”を顕現されているのです。そして“わたし”は“彼の子”です。囚われから離れ、“わたし”の声に耳を傾ける者には、“わたし”の声がわかります。“わたし”は、“わたし”の内に常に留まり給う父なる神“ご自身”に代わって語っているのです。

(ヨハネによる福音書 1:1-2、5:19、8:28-29、10:30、14:9-11,23、ヘブライ人への手紙 1:1-2、申命記 6:4、出エジプト記 3:14、詩篇 33:6)

もしあなたたちの信仰が偉大なものであるならば、あなたたちの望むものが何であれ、まさに望んだそのときに叶えられます。

(マタイ福音書 21:21-22、マルコ福音書 11:22-24、詩篇 20:4、37:4、ヤコブの手紙 1:5-8、ヘブライ人への手紙 11:1-3、ヨハネの手紙一 5:14-15)

神は“霊”です。“単なる一つ”の霊ではなく、唯一絶対の“霊”です。“霊”はそれ自身で完全無欠であり、自己を表現するために形態を創造し、顕現する力を持っています。あなたたちは“実在”を意識するにつれて“実在”と一つとなり、“実在”を表現するようになります。

(ヨハネによる福音書 4:24、コリントの信徒への手紙一 2:10-11、コリントの信徒への手紙二 3:17、コロサイの信徒への手紙 1:19、ヘブライ人への手紙 1:3、創世記 1:2,26)