講話番号順に表示 新規投稿順に表示

わたしは、わたしたちの兄弟(ベイン氏)を通して現れている“命の意識”の中に入ります。すると、わたしの“意識”は彼の意識を覆います。それは、ちょうど大きな光が小さな光を覆い隠すのと同じです。ですが、同じ光源の光がわたしたち二人の中で輝いているのです。

(ヨハネ福音書 1:9、14:20、創世記 1:26、詩篇 139:13-14、コリントの信徒への手紙一 3:16、コリントの信徒への手紙二 4:6、エフェソの信徒への手紙 4:6、ローマの信徒への手紙 8:10)

ここには最もすばらしい顕現があります。これを単なる奇跡と言う人もいるでしょうが、実際には奇跡ではなく、一つの“個の生命”が、他の“意識”を通じて、自己自身に現れているのは“唯一無二の命”であることに気づくという表現にすぎません。

(エフェソの信徒への手紙 4:6、創世記 1:27、詩篇 139:13-14、ヨハネ福音書 14:20、コリントの信徒への手紙一 3:16)

この兄弟は、いつでも自分の体から離れることができます。しかしそれは、いわゆる体外離脱というものではなく、“外側の意識”から“内側の意識”へと退くということであり、“内側の意識”へと退くことによって、いつでもあなたたちと接触することができるのです。

(コリントの信徒への手紙二 5:1-4、12:2-4、ダニエル書 10:5-9、ヨハネの黙示録 1:10、フィリピの信徒への手紙 1:23、ヘブライ人への手紙 12:23)

彼はあなたたちを癒やすことができ、助けることができます。必要であれば、いつでもわたしを呼び出し、さらなる支援や助けをもたらすことができるのです。

(マタイ福音書 7:7、9:35、ヤコブの手紙 5:14-15、詩篇 91:15、107:20、コリントの信徒への手紙一 12:9、使徒言行録 12:5-7)

このようにして、“聖域”(the Sanctuary)を通じて、世界中で沈黙の癒やしが行われています。人間の“意識”が内に秘められたこの大いなる“力”に目覚めるにつれて、この“力”が発現し始めるのです。

(詩篇 91:1 、エゼキエル書 47:12、ヨハネ福音書 7:38-39、ヘブライ人への手紙 9:11-12、マタイの福音書 9:20-22、使徒言行録 3:6-7)

世界には、無限にして永遠なる完全な“愛”が存在しています。なぜなら、神は“愛”であり、“愛”は神であるからです。そして、“意識”は、真の“愛”を現すために、このことに気づかなければなりません。これが“神聖なる至福”の秘訣なのです。

(ヨハネの手紙一 4:8,16、ヨハネの福音書 15:9-12、詩篇 103:8、コリントの信徒への手紙一 13:4-8、ヨハネの黙示録 21:4)

この兄弟の“意識”は個人的な意識から“宇宙的な意識”へと引き上げられています。しかしこれは自己の喪失を意味するのではなく、“万生万物”との統一によって、より大いなる自己となっていることを意味しているのです。

(詩篇 82:6、ヨハネ福音書 10:30、17:21、コリントの信徒への手紙一 3:16、エフェソの信徒への手紙 4:13-14、ヨハネの黙示録 21:6、ローマの信徒への手紙 12:5)

“キリスト”とは、父なる神が人格となって現れたものであり、“キリスト”と父なる神の間に隔たりはなく、両者は一体です。今、人格となって現れている父なる神が、あなたたちの“内なるキリスト”なのです。

(ヨハネ福音書 10:30、14:10,20、コリントの信徒への手紙二 3:18、エフェソの信徒への手紙 4:13-14、ヘブライ人への手紙 1:3、ヨハネの手紙一 4:15)

しかし、“キリスト”が遍在なる“命”の“意識”の中に退けば、“父なる神”の“全能性”(Omnipotence of the Father)によって、このようにあなたたちすべてのもとに臨むことができるのです。誰でも“わたし”の名によって何かを願うならば、父と“わたし”は一つであるため、それは成されるのです。

(マタイの福音書 28:18、ヨハネ福音書 5:14-15、14:13-14、17:21、ヨハネの黙示録 21:6、22:13)

このようにしてあなたたちの意識も引き上げられるのです。人の意識は、“神の意識”を認識するように引き上げられなければなりません。一連の講話を通じて、あなたたちの意識は、自分を意識することから“神”、すなわち内在の“キリスト”を意識するように高められてきているのです。

(ヨハネ福音書 14:23、コロサイ人への手紙 3:2、コリントの信徒への手紙二 3:18、エフェソの信徒への手紙 4:23-24、箴言 4:23、ローマの信徒への手紙 12:2)