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迷わなかった九十九匹よりも、一度は見失っても今見つかった一匹の方を天は喜ばれるのです。

(ルカ福音書 15:3-7、マタイによる福音書 18:12-14、エゼキエル書 33:11、詩篇 51:17)

多くの人が、“父”が迷える羊の方を愛するからといって怒ります。けれどもあなたたちに言っておきますが、その一匹の羊の方が“父の愛”をいっそう必要としているのです。“わたし”を信じなさい。“神の愛”は“わたし”を通じて現れていること、“わたし”はすべての人を、たとえ“わたし”を軽蔑した人でも愛していることを知りなさい。

(ルカの福音書 15:2-4,11-32、ヨハネの福音書 3:16、13:34-35、マタイの福音書 5:44)

わたしの神に対する意識は、不当な仕打ちを受けても決して曇らされることはありません。わたしは神の“愛”に気づき、悟ることによって、「“父”よ、彼らを許し給え。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」という真実を吐露できる境地に入ることができたのです。

(ルカの福音書 23:34、マタイの福音書 5:44-45、使徒言行録 7:60、出エジプト記 34:6-7、詩篇 103:10-12)

群れから離れていない人びとであっても、“父”が愛するすべての者に与えられている賜物を受けることができない人がいます。それは、彼らが常に“父”と共にあるということを知らないからです。

(ヨハネ福音書 14:23、ルカの福音書 15:31、ローマの信徒への手紙 8:17、エフェソの信徒への手紙 1:3、申命記 31:6、詩篇 46:1)

遠く離れたところから、声を張り上げて神を呼び、叫ぶ人びとがいます。しかし、言っておきますが、「“わたし”はあなたたちの中に生き、住んでいます。“わたし”は神の子であり、“世の光”です。“わたし”は“父”の真の顕現であり、“わたし”が“父”に求めるものは何でも“父”が与えてくださいます」。もしあなたたちが、“わたし”の名によって求め、自己の内に“わたし”を認めるならば、あなたたちが求めるものはすべて成し遂げられます。

(マタイによる福音書 21:22、ルカによる福音書 11:9、ヨハネによる福音書 8:12、14:13-14、15:7、16:23-24、コロサイの信徒への手紙 3:11、イザヤ書 57:15、詩篇 139:7-8)

あなたたちが耳を傾けさえすれば、“父”は常にあなたたちの心の内で語りかけておられるのです。「わが子よ、あなたは常に“わたし”と共にあり、“わたし”のものはすべてあなたのものなのです」と。

(ルカによる福音書 15:31、ヨハネによる福音書 14:23、ローマの信徒への手紙 8:17、ガラテヤの信徒への手紙 3:26、4:7、エフェソの信徒への手紙 2:10)

神が存在しておられるがゆえに、あなたたちは存在しているのです。神のものはすべてあなたたちのものなのです。

(ルカの福音書 15:31、ヨハネによる福音書15:11、ローマの信徒への手紙 8:16-17、コリントの信徒への手紙二 3:18、詩篇 24:1、100:3)

あなたたちの多くが活力に欠けているように見えます。これはあなたたちが、霊的・精神的・物質的、すなわち、“霊・魂・体”として現れている三つの次元でつり合いがとれていない生き方をしているからです。

(テサロニケの信徒への手紙一 5:23、コリントの信徒への手紙一 15:45、テモテへの手紙二 4:8、ヤコブへの手紙 1:2-4、エフェソの信徒への手紙 6:10-13、ローマの信徒への手紙 12:1-2、ペトロの手紙二 1:5-9、ヤコブの手紙 2:17-18、箴言 3:7-8)

このアンバランスな生活状態は、“命”は何らかの外部の根源に由来していると信じているために生じているのです。

(ヨハネの福音書 1:4、4:14、14:6、15:5、使徒言行録 17:28、ガラテヤの信徒への手紙 3:26、エフェソの信徒への手紙 2:10、ヤコブの手紙 1:2-4、創世記2:7、箴言3:5-6、イザヤ書40:29-31)

あなたたちの大多数は、体にはとても気を配っているのに、“生命の源”にはわずかな注意しか払っていません。

(マタイの福音書 6:25-34、コロサイの信徒への手紙 3:2、ローマの信徒への手紙 8:5-6、ヨハネによる福音書 4:14、フィリピの信徒への手紙4:6-7、ヤコブの手紙 1:2-4、申命記6:5、箴言3:5-6、イザヤ書40:28-31)