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真の癒やしの業は、肉体感覚が消え、意識が“内なる天国”に向けられたときにのみ成し遂げられるのです。

(詩篇 41:3、147:3、イザヤ書 33:24、マタイによる福音書 6:21、マルコによる福音書 16:18、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 14:23,27)

これが二度と渇くことがないように、“わたし”があなたたちに与える水です。それはこの水が“永遠の命”に至る水の源泉になるからです。(イザヤ書 12:3、ヨハネによる福音書 4:14、7:38、ヨハネの黙示録 21:6)

“わたし”は“父”と共に見たことを語ります。神は“わたし“の“父”であると同時にあなたたちの“父”です。ゆえに、“わたし”があなたたちを愛するように、あなたたちもお互いに愛し合わなければならないのです。

(出エジプト記 23:5、レビ記 19:18、箴言 3:3-4、ヨハネによる福音書 15:9,12、ヨハネの手紙一 4:8,16)

あなたたちが思いと心情(hearts)を内側に向けるとき、あなたたちの魂は“神のキリスト”、すなわち初めから神と共にあり、神と共にあった神の唯一の御子の温もりを感じ始めます。“この方”によらずして生まれたものはなく、造られたものはすべて、“この方”を通して造られたのです。

(箴言 8:22-31、ヨハネによる福音書 1:1-3、コロサイの信徒への手紙 1:15-17、ヘブライの信徒への手紙 1:1-3、ヨハネの黙示録 3:14)

“子”を通してご自身を現されている“父の愛”の美しさを見るとき、子は“神の愛”そのものであることがわかります。

(ヨハネによる福音書 14:6-11、ヨハネの手紙一 4:7-12、ヨハネの黙示録 5:6-14、7:9-17、21:9-14、22:17)

“子”は、“父の愛”が常に自分に注がれていることを知り、理解しています。そして、受け取ったままに、自然に現しています。ゆえに、“わたし”があなたたちを愛するように、あなたたちは互いに愛し合わなければならないのです。

(ヨハネによる福音書 15:9-17、ヨハネの手紙一 4:7-21)

互いに愛し合い、“わたし”が語ったことを守ること、あなたたちができることでこれ以上に大いなるものはありません。“わたし”は父から“わたし”に与えられた“真理”を語っているからであり、この“真理”があなたたちを自由にするのです。

(出エジプト記 23:5、レビ記 19:18,33、申命記 6:6-9、10:19、ヨシュア記 1:8、詩篇 119:105、ヨハネによる福音書 14:15-17、ヨハネの手紙一 4:7-21)

罪とは、感覚につながっている外側の自我による大いなる虚偽(錯覚)であり、分離と混沌に属するものです。

(出エジプト記 20:1-17、レビ記 4:1-35、詩篇 51:1-12、ヨハネによる福音書 3:16、ローマの信徒への手紙 3:23、コリントの信徒への手紙二 5:17、ヨハネの黙示録 5:6、12:9、7:9-17、13:1-10、20:10、21:1-4)

多くの人びとが世の罪について説いていますが、わたしはこの罪というものを、あまり長く見つめすぎないようにと言いました。いつまでも罪を凝視していて、どうして“キリスト”を見ることができるのでしょうか。

(詩篇 32:5、51:1-20、イザヤ書 1:17-19、ヨハネによる福音書 3:16、8:11、ローマの信徒への手紙 6:14、コリントの信徒への手紙二 5:17)

あなたたちの自己の内なる“キリスト”に目を向ければ、頭と心の中にある分離、混乱、罪は溶け去ります。

(ヨハネによる福音書 1:1-14、3:16、8:12、10:10、14:6、15:5、コリントの信徒への手紙二 5:17、ヨハネの黙示録 3:20、12:10、21:3-4)