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“神のキリスト”は初めから存在していた――この“真理”を世界にはっきりと示すために、わたしは「アブラハムの前に“わたしはある”」という明確な宣言を行ったのです。

(詩篇 90:2、箴言 8:22-23、箴言 8:22-23、マラキ書 3:6、ヨハネによる福音書 1:1-3、6:62-63、8:24,58、10:30、14:9、コロサイの信徒への手紙 1:15-17、ヨハネの黙示録 1:8,17-18、3:14、21:6、22:13)

世はすでに亡くなった預言者たちを認めながらも、“永遠の命の真理”は無視してきました。しかし、キリストが十字架から蘇られたとき、その使命はついに果たされたのです。

(詩篇 16:10、110:1、イザヤ書 9:6、53:5-6,10-12、マタイによる福音書 28:6,19、ルカによる福音書 24:6-7、ヨハネによる福音書 3:16、11:25)

“天と地”は、“一なる永遠の霊”が、形態の中にご自身を表現されている御業ですが、そこに分離はありません。身体は、不可視の人間(“実在”の人間、すなわち真我)が機能する焦点にすぎません。

(詩篇 33:6、イザヤ書 6:3、139:7-10、ヨハネによる福音書 1:1-3、コリントの信徒への手紙二 5:17)

“神のキリスト”は自らを顕現するために創造された形態に入りますが、“唯一なるもの”の中に存在し、その“唯一なるもの”は、すべての中に存在します。

(創世記 1:1、詩篇 2:7、箴言 8:22-31、ヨハネによる福音書 1:1-3、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13)

“命”のみが生きている、これこそが最も重要な真実です。“真理”には始まりがありません。ゆえに、新しいものは何もありません。存在するものはすべて、すでに神に知られているのです。

(詩篇 90:4、139:1-6、コヘレトの言葉 1:9-10、3:15、イザヤ書 41:4、マタイによる福音書 24:35、ヨハネによる福音書 1:1-5、14:6、ヘブライの信徒への手紙 13:8、ヨハネの手紙一 5:11-13,20、ヨハネの黙示録 21:1-7)

あなたたちがここにいることは偶然ではなく、神には知られていたのです。一羽の雀でさえ、“父”が知らずして地に落ちることはなく、あなたたちの髪の毛ですら数えられているのです。

(詩篇 139:1-6、コヘレトの言葉 3:15、マタイによる福音書 10:29-31、ルカによる福音書 12:6-7)

この認識においては、遍在する “知性”が存在し、その“知性”は、それに気づいた意識を通じて自己を表現します。気づきが大きければ大きいほど、その“知性”の現象化も大きくなります。

(詩篇 139:7-12、箴言 8:22-31、ヨハネによる福音書 1:1-5、使徒言行録 17:28、コロサイの信徒への手紙 1:15-17)

この“知性”は常に活動的で、決して受動的にはなりません。それは絶えず“霊”の欲求を具現化しています。なぜなら、あなたたちの内に“キリスト”が住まわれており、この“キリスト”があなたたちの内にある唯一の“創造力”だからです。(詩篇 42:1、 73:28、イザヤ書 40:31、エゼキエル書 36:27、ヨハネによる福音書 1:14、 17:21、コリントの信徒への手紙二 13:5、エフェソの信徒への手紙 3:17、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、コロサイの信徒への手紙 1:27)

あなたたちの不幸の根源はすべて、“真理”と“命”からは分離しているという先入観にあります。ですから「“わたし”は“命”である」と言うのです。「“父”と“わたし”は一つです」。(詩篇 36:9、ヨハネによる福音書 10:30、11:25、14:6、15:1-8、ヨハネの黙示録 22:1-2)

あなたたちが皆、完全に一致すれば、あなたたちは世界とそこに住むすべての人びとのために、大いなる業を成し遂げることができるのです。そこに“わたし”がいるからです。

(創世記 11:1-9、申命記 6:4-9、マタイによる福音書 18:20、ヨハネによる福音書 17:21、使徒言行録 2:1、エフェソの信徒への手紙 4:3、フィリピの信徒への手紙 2:1-4)