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外なる人は“地”であり、内なる人は“天の主”です。“天の主”はすべてを統治しています。彼にはすべての力が与えられており、“主”であり、“律法”であるからです。

(詩篇 110:1-7、イザヤ書 9:6-7、コリントの信徒への手紙二 4:16、コロサイの信徒への手紙 3:9-10、マタイによる福音書 28:18、ヨハネによる福音書 14:6)

“律法”は“主”の上にはなく、“主”は“律法”の上にあります。「“わたし”は“律法”なり」と“主”は言われます。

(マタイによる福音書 5:17-18、12:8、ルカによる福音書 6:5、ヨハネによる福音書 14:6、ローマの信徒への手紙 3:21、出エジプト記 20:1-2、詩篇 119:105)

あなたたちがこのことを認識したとき、あなたたちは自分の目で“全能者”の生ける現れを見ることになります。なぜなら、 “ご自身”の似姿として、“キリスト”を通してあなたたちを創造されたのは、“全能者”に他ならないからです。

(創世記 1:26-27、5:1、ヨハネによる福音書 14:9、コリントの信徒への手紙一 11:7、コリントの信徒への手紙二 3:1、ヤコブの手紙 1:23)

一人ひとりすべての魂の中に、神の独り子“キリスト”が宿っておられます。ゆえに、あなたたちは“キリスト”の体の中に生き、“キリストの霊”はあなたたち一人ひとりの中に生きているのです。

(ヨハネによる福音書 1:14、コリントの信徒への手紙一 12:27、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、コリントの信徒への手紙二 13:5、ローマの信徒への手紙 8:9、エフェソの信徒への手紙 5:30)

あなたたちは“天の父”の似姿として生まれたように、あなたたちの内なる“キリスト”は、“父”の姿を外なるものに反映しているのです。

(創世記 1:26-27、コリントの信徒への手紙二 3:18、エフェソの信徒への手紙 4:24、ヤコブの手紙 1:23)

外なるものとは肉と血のことです。しかし、肉と血は“天の王国”に入ることはできません。“天の王国”は“霊”と水の領域であり、肉は口を出す権利がないからです。

(ヨハネによる福音書 3:5、コリントの信徒への手紙二 5:16、ローマの信徒への手紙 8:6-8、ヨハネの手紙一 3:9、エゼキエル書 36:26)

“水”とは不可視の質料、すなわち“神のマインド”を意味しており、ありとあらゆるすべてがその中に存在しています。この微細な霊的質料によってすべてのものが創造されます。肉や骨さえもです。形は消えても“霊”は永久に残ります。

(創世記 1:1-2、詩篇 139:13-16、ヨハネによる福音書 3:5、 4:14、コリントの信徒への手紙一 15:42-44、ヨハネの黙示録 22:1)

しかし、魂が“霊”の力によって高められ、肉体のヴァイブレーションが及ばないところまで引き上げられると、魂は内なる領域に入り、そこで“わたし”と共に留まります。“わたし”(“I am”)は、内なるものの中と同時に外なるものの中にも存在するからです。けれども肉や血の影響は受けません。“わたし”は“霊”の力によって世に打ち勝ったのであり、肉はこのことについて口をはさむ資格はないのです。

(ヨハネによる福音書 3:6、14:16-17、16:33、コリントの信徒への手紙二 5:17、ローマの信徒への手紙 8:1-2、ガラテヤの信徒への手紙 5:16,22-23、ヨハネの黙示録 21:3-4)

外なるものとは肉と血のことですが、肉と血は“天の王国”には入ることはできません。肉と血は“キリスト”が地上に顕現するための手段なのです。

(ヨハネによる福音書 3:5-6、マタイによる福音書 16:17、コリント人への手紙第二 5:16、ローマ人への手紙 8:6、ヨハネによる福音書 1:14、ヘブライの信徒への手紙 10:5、エフェソの信徒への手紙 6:12)

外なるものの中にある虚偽は消え去ります。なぜなら、“愛”の心から赦しの癒やしがやって来るからです。

(マタイによる福音書 6:14-15、エフェソの信徒への手紙 4:32、コリントの信徒への手紙二 5:17、コロサイの信徒への手紙 3:13、ヨハネによる福音書 8:11、詩篇 103:12)