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“わたし”は“命”です。“わたし”を信じる者は死ぬことはなく、たとえ死んでも生きるのです。なぜなら“わたし”は、あなたたちの内なる“命”だからです。“わたし”を信じる者には永遠の“命”があります。ゆえに死はありません。“わたし”があなたたちの中で生きているからです。
(ヨハネによる福音書 3:16、11:25-26、 14:6,19、ヨハネの手紙一 5:11-13、詩篇 23:1-6、イザヤ書 40:31)

万生万物すべて、同一の“霊”なのです。大海の一滴のしずくは、大海全体と同じ本質を備えています。 “わたし” は至るところすべてに存在しているのです。
(使徒言行録 17:28、コリントの信徒への手紙一 12:4-11,13、詩篇 139:7-10)

悟りと“愛”によって、あなたたちはすべての魂に宿る“キリスト”の中に入ります。そこに “わたし” がいるからです。
(ヨハネによる福音書 14:20-23、ローマの信徒への手紙 8:10、コリントの信徒への手紙一 3:16、コリントの信徒への手紙二 5:17、ガラテヤ人への手紙 3:28、詩篇 133:1)

あなたたちはわたしが語った言葉を聴いています。「わたしは絶えず目の前に主を置く。主はわたしの右におられ、わたしは揺らぐことがない」
(詩篇 16:8、使徒言行録 2:25、ヘブライ人への手紙 12:2、イザヤ書 41:10)

神と人が一つであるということを学ぶのになんと時間がかかることか。あなたたちは自分の限界を捨て去ることを恐れています。まるで子供のように、自分のおもちゃ、壁、仕切り、教会、礼拝堂、シナゴーグ、モスクなどにしがみついています。ああ、あなたたちを皆、“わたし”の翼の下に集め、万生万物の内に宿る“唯一の命”を見せることができないものだろうか!
(ヨハネによる福音書 10:30、17:21、使徒言行録 17:28、コリントの信徒への手紙一 12:4-11、詩篇 139:7-10、イザヤ書 56:7)

目に見えるものも見えないものも含め、神はありとあらゆるすべての“命”であり、この“命”は完璧な“愛”です。しかしこのことを学ぶのになんと時間がかかるのだろうと、あなたたちはしばしば疑問に思うでしょう。それは、あなたたちが“真理”を内からではなく、外から把握しようとするからなのです。
(ルカの福音書 17:21、詩篇 46:10、139:7-10、ヨハネによる福音書 4:24、14:6、ヨハネの手紙一 4:7-8)

失ってしまうのではないかと恐れているものに、あなたたちはいかにしがみついているのでしょう。自分の生命を得ようとする者はそれを失い、生命を捧げようとする者はそれを得るのです。
(マタイによる福音書 16:24-25、ヨハネによる福音書 12:24-25、マルコによる福音書 8:35、ルカによる福音書 9:23-24、17:33、フィリピの信徒への手紙 3:7-8、テモテへの手紙一 6:6-10)

“わたし”は“キリスト”から語っています。常にそうしてきました。 “わたし”の言葉が外なるものにのみ生きている人びとにとって奇妙に思えたのはそのためです。何百万もの人びとがいまだに束縛されています。しかし“わたし”の扉は、どんなときでもすべての人びとに開け放たれており、誰でも入って来て、“わたし”と共に食事をすることができるのです。
(ヨハネの福音書 6:35、10:9、14:6,26、ヨハネの黙示録 3:20、コリントの信徒への手紙二 4:3-4、ヨハネの手紙一 2:27、マタイによる福音書 11:25)

サタン(悪魔)がその道を塞(ふさ)ごうとしています。サタンとは偽我です。すべての人が打ち勝たなければならない感覚という“悪魔”です。
(コリント信徒への手紙二 10:4-5、ガラテヤの信徒への手紙 5:16-17、ヤコブの手紙 1:13-15、エフェソの信徒への手紙 6:10-18、マタイによる福音書 4:1-11)

死すべき感覚によるこの錯覚こそが、真の“霊的意識”の認識を妨げる唯一の障害です。なぜなら、 “天国”はあなたたちの内にあるからです。“わたし”は“命”です。2000年前と同じ“命”です。モーゼとエリヤは、わたしよりも先立って地上に現れていますが、すべての人びとの中に現れているのと同じ“命”でした。「アブラハムが生まれる前から“わたしはある”」
(ルカによる福音書 17:21、マタイによる福音書 6:22-23、ヨハネの黙示録 1:8、コリントの信徒への手紙二 4:16、出エジプト記 3:14、ヨハネによる福音書 8:58、10:30)