講話 8 – 11
気づき“天国”とは人の意識の真実の状態、父なる神の真の現れであると認識されたとき、自由がやってきます。“わたし”と父は一つです。
(詩篇 73:24、103:19、イザヤ書 25:8、ダニエル書 4:26、マタイによる福音書 5:3-12、ヨハネによる福音書 10:30、14:6,27)
講話 8 – 12
気づき「“わたし”と“父”は一つである」という言葉の深い意味を理解し、それが真実であることを真に受け容れるとき、それを自分自身に繰り返すことで、外なる自己が変容してきます。内なるものが理解し、受け容れるものは、必ず外なるものに現れるからです。
(箴言 8:22-31、マタイによる福音書 6:10、ヨハネによる福音書 10:30、14:6、17:21-23、コリントの信徒への手紙二 5:17、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、ヨハネの黙示録 1:8、21:5、22:1)
講話 8 – 13
気づき“わたし”が理解し、実感しているのは、この大いなる力です。このように“わたし”は“真理”を認め、“真理”に目覚めたのです。“わたし”の内に常におられるのは“父”であり、“父”は“わたし”の内で働かれています。御業をなさるのは“父”です。“父ご自身”が、“父ご自身”の御業をなされているのです。
(詩篇 95:3-5、イザヤ書 40:28-31、ヨハネによる福音書 5:19-24、14:10-11、17:20-21、ガラテヤの信徒への手紙 2:20)
講話 8 – 14
気づき永遠なる“霊”、“神のキリスト”は、すべての“被造物”に先立っていました。――「アブラハムの前に“わたしはある”」のであり、「“わたし”はある」は、アブラハムだけでなく、万生万物すべての生ける魂の中の“命”であるという認識なのです。
(詩篇 90:2、箴言 8:22-23、ヨハネによる福音書 1:1-4、8:5、14:6、コロサイの信徒への手紙 1:15-17)
講話 8 – 15
気づき“神のキリスト”は初めから存在していた――この“真理”を世界にはっきりと示すために、わたしは「アブラハムの前に“わたしはある”」という明確な宣言を行ったのです。
(詩篇 90:2、箴言 8:22-23、箴言 8:22-23、マラキ書 3:6、ヨハネによる福音書 1:1-3、6:62-63、8:24,58、10:30、14:9、コロサイの信徒への手紙 1:15-17、ヨハネの黙示録 1:8,17-18、3:14、21:6、22:13)
講話 8 – 16
気づき世はすでに亡くなった預言者たちを認めながらも、“永遠の命の真理”は無視してきました。しかし、キリストが十字架から蘇られたとき、その使命はついに果たされたのです。
(詩篇 16:10、110:1、イザヤ書 9:6、53:5-6,10-12、マタイによる福音書 28:6,19、ルカによる福音書 24:6-7、ヨハネによる福音書 3:16、11:25)
講話 8 – 17
気づき“天と地”は、“一なる永遠の霊”が、形態の中にご自身を表現されている御業ですが、そこに分離はありません。身体は、不可視の人間(“実在”の人間、すなわち真我)が機能する焦点にすぎません。
(詩篇 33:6、イザヤ書 6:3、139:7-10、ヨハネによる福音書 1:1-3、コリントの信徒への手紙二 5:17)
講話 8 – 18
気づき“神のキリスト”は自らを顕現するために創造された形態に入りますが、“唯一なるもの”の中に存在し、その“唯一なるもの”は、すべての中に存在します。
(創世記 1:1、詩篇 2:7、箴言 8:22-31、ヨハネによる福音書 1:1-3、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13)
講話 8 – 19
気づき“命”のみが生きている、これこそが最も重要な真実です。“真理”には始まりがありません。ゆえに、新しいものは何もありません。存在するものはすべて、すでに神に知られているのです。
(詩篇 90:4、139:1-6、コヘレトの言葉 1:9-10、3:15、イザヤ書 41:4、マタイによる福音書 24:35、ヨハネによる福音書 1:1-5、14:6、ヘブライの信徒への手紙 13:8、ヨハネの手紙一 5:11-13,20、ヨハネの黙示録 21:1-7)
講話 8 – 20
気づきあなたたちがここにいることは偶然ではなく、神には知られていたのです。一羽の雀でさえ、“父”が知らずして地に落ちることはなく、あなたたちの髪の毛ですら数えられているのです。
(詩篇 139:1-6、コヘレトの言葉 3:15、マタイによる福音書 10:29-31、ルカによる福音書 12:6-7)