講話 11 – 1
気づき全能者が、個の“命”として現れているのが、“キリスト”です。この“キリスト”は、あなたたちの中に、そして生きとし生ける魂すべての中に宿っています。“キリスト”こそ、あなたたちの“命”であり、あなたたちの“意識”なのです。“キリスト”によってあなたたちは生き、“キリスト”によって永遠となり、“キリスト”によって救いを得るのです。
(マタイによる福音書 1:23、16:16、28:20、マルコによる福音書 1:11、8:35、13:11、ルカによる福音書 4:18-19、17:21、ヨハネによる福音書 1:1-3、10:30、14:6,20、20:31、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:10、コリントの信徒への手紙一 1:30、3:16、8:6、コリントの信徒への手紙二 13:5、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 3:17-19、フィリピの信徒への手紙 1:21、コロサイの信徒への手紙 1:15-20,27、ヘブライ人への手紙 1:1-2、ペトロの手紙一 1:23、ヨハネの手紙一 4:9、箴言 3:5-6、4:23、詩編 16:11、36:10、ヨハネの黙示録 1:5-6、21:3,6)
講話 11 – 2
気づきこれこそ大いなる“宇宙意識”であり、地球全体を包んでいる内なるイルミネーション(光明)です。これがすべての人びとに理解されるとき、地球全体が変容します。“真理”に目覚めることによって、無智の状態から脱却するのです。
(マタイによる福音書 5:14、13:43、マルコによる福音書 4:22、16:15、ルカによる福音書 3:6、24:45、ヨハネによる福音書 1:9、8:12,32、21:1,23-24、使徒言行録 26:18、ローマの信徒への手紙 8:21、12:2、コリントの信徒への手紙一 15:28,49、コリントの信徒への手紙二 3:18、4:6、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、エフェソの信徒への手紙 1:10,18、5:14、フィリピの信徒への手紙 2:15、コロサイの信徒への手紙 1:13、3:10-11、イザヤ書 11:9、コレヘトの言葉 2:13、箴言 4:18、詩編 97:1、119:130、ヨハネの黙示録 7:17、21:23-24)
講話 11 – 3
気づき各人の内なる“普遍性”が認識されるにつれて、それは、真に普遍なるものとなります。このようにして、個人の背後にある“全体性”が、各人によって悟られるのです。
(マタイによる福音書 5:14,48、22:39、マルコによる福音書 4:11,22、12:29-31、ルカによる福音書 8:10、17:21、ヨハネによる福音書 14:20、17:21-23、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:29、12:5、コリントの信徒への手紙一 12:12-13、コリントの信徒への手紙二 3:18、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、4:19、エフェソの信徒への手紙 4:6,13、フィリピの信徒への手紙 2:2、コロサイの信徒への手紙 3:11、ペトロの手紙一 1:23、イザヤ書 45:6、コレヘトの言葉 3:11、箴言 8:31、20:27、詩編 133:1、139:7-8、ヨハネの黙示録 21:3,24、22:2)
講話 11 – 4
気づき“普遍なるもの”が、個として現れたもの、それが“キリスト”です。そしてこの事実は、一人ひとりの各人によって認識されなければなりません。そのとき、個人は、自らの背後に、そしてまた、人類全体の背後にも、“全体なるもの”があることを知ります。なぜなら、分離・分割というものはどこにも存在しないからです。(個のうちに普遍が宿るということ、)これが、完全に悟られたとき、人の中に神が現れるのです。
(マタイによる福音書 5:14、16:16、マルコによる福音書 9:7、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 1:14、10:30、14:6,20、17:21-23、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:29、コリントの信徒への手紙一 12:12-13、コリントの信徒への手紙二 3:18、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、3:28、エフェソの信徒への手紙 4:6、フィリピの信徒への手紙 2:5-6、コロサイの信徒への手紙 1:15-16,27、ヘブライ人への手紙 1:1-2、ペトロの手紙一 1:23、箴言 8:31、20:27、詩編 8:6、82:6、ヨハネの黙示録 1:1、21:3)
講話 11 – 5
気づき神の中には、いかなる分離も分割も存在しません。唯一の“全体なるもの”が、“多”の中に、自己自身を現しているのです。神の“意識”は、神のすべての創造のうちに現れており、神のすべての創造は、神の“意識”の中に存在しています。「汝のただ中におられる主なる神は、力ある御方」なのです。(The Lord thy God in the midst of thee is Mighty. )『Zephaniah 3:17 (KJV)』
(マタイによる福音書 5:9,48、6:33、マルコによる福音書 12:29、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 14:23、17:21-23、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 11:36、12:5、コリントの信徒への手紙一 12:6,13、コリントの信徒への手紙二 5:17、6:16、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、エフェソの信徒への手紙 4:6、フィリピの信徒への手紙 2:13、コロサイの信徒への手紙 1:17、イザヤ書 43:10、45:18、ゼファニヤ書 3:17、箴言 3:19-20、20:27、詩編 46:6、139:7-10、ヨハネの黙示録 21:3,22、22:5)
講話 11 – 6
気づきこのことを理解し始めると、あなたたちは、自分を取り巻く状況から意識を引き上げ、本来、受け継いでいる、内なる“神のキリスト”という生得権の領域に、入って行くようになるのです。
(マタイによる福音書 5:8、6:22,33、マルコによる福音書 4:24、8:34、9:23、ルカによる福音書 9:23、15:17-18,24、ヨハネによる福音書 1:12、3:3、8:32、10:38、14:20、使徒言行録 17:28、26:18、ローマの信徒への手紙 8:14,17、コリントの信徒への手紙一 2:12、15:49、コリントの信徒への手紙二 3:18、5:17、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、4:7、エフェソの信徒への手紙 1:18、2:6、3:17、4:22-24、フィリピの信徒への手紙 3:14、コロサイの信徒への手紙 1:27、3:1、コレヘトの言葉 3:11、箴言 4:18、20:27、詩編 73:24、ヨハネの黙示録 3:20-21、21:7)
講話 11 – 7
気づきそのとき、世界は、時間と空間の束縛から解き放たれ、本来の“霊”的自由を得るのです。
(マタイによる福音書 13:43、19:26、マルコによる福音書 10:27-30、ルカによる福音書 4:18、17:20-21、21:28、ヨハネによる福音書 8:32,36、17:15-16、使徒言行録 3:21、13:39、ローマの信徒への手紙 8:21、コリントの信徒への手紙一 15:52-55、コリントの信徒への手紙二 3:17、5:16、ガラテヤの信徒への手紙 4:9、5:1、エフェソの信徒への手紙 1:10、2:6、6:12、フィリピの信徒への手紙 3:20、コロサイの信徒への手紙 3:2-3、ペトロの手紙一 1:23、イザヤ書 65:17-18、ダニエル書 12:2、コレヘトの言葉 3:11、箴言 4:18、詩編 102:26-28、146:7、ヨハネの黙示録 21:1,4)
講話 11 – 8
気づき時間と空間は、“全体性” ―― すなわち、“無限なるもの”の完全さを理解する上で、常に、妨げとなってきました。“無限なるもの”を認識するためには、時間も空間も存在してはならないのです。
(マタイによる福音書 5:48、6:10、マルコによる福音書 12:32、13:31、ルカによる福音書 17:21、20:34-36、ヨハネによる福音書 1:1-3、4:24、8:58、14:6、17:3、使徒言行録 17:24,28、ローマの信徒への手紙 1:20、8:21、コリントの信徒への手紙一 2:9、13:12、コリントの信徒への手紙二 4:18、5:7、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、4:7、エフェソの信徒への手紙 1:4,10、3:18-19、フィリピの信徒への手紙 3:20、コロサイの信徒への手紙 1:17、コレヘトの言葉 3:11、箴言 8:23、詩編 90:2、139:7-10、ヨハネの黙示録 10:6、21:1-4、22:13)
講話 11 – 9
気づき“実在”には、始まりもなく、終わりもありません。“実在”は、人間によって創造されたものではありません。それに反して、人間が、自らの意識の中で、時間と空間を創り出しているのです。これこそが幻想なのです。時間も空間も、始まりも終わりもない、“全きもの”を理解せず、認識もしないのです。唯一の“全きもの”があるだけであり、今この瞬間も、この“全きもの”が、自己自身を現しているのです。これこそが、“実在”なのです。“わたし”は“実在”と一つであり、“実在”もまた、“わたし”と一つなのです。これこそが、すべてが可能となる“キリスト意識”の悟りなのです。
(マタイによる福音書 5:48、19:26、マルコによる福音書 10:27、13:31、ルカによる福音書 1:33、17:21、ヨハネによる福音書 1:1、8:58、10:30、14:6,20、17:3,21-23、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:21,38-39、コリントの信徒への手紙一 2:10、8:6、13:12、コリントの信徒への手紙二 3:18、5:7,17、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 1:10、3:19、4:6、フィリピの信徒への手紙 4:13、コロサイの信徒への手紙 1:17、コレヘトの言葉 3:11、箴言 8:23、詩編 90:2、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13)
講話 11 – 10
気づきパーソナリティを超えたところを見なさい、パーソナリティや人間性は、外的な現れでしかないのです。自己自身の外側には、“真理”を見出すことはできません。あなたたちは、現象として現れている自分や、周囲の人びとを、外的なパーソナリティの背後を見なければなりません。パーソナリティの中に、“真実”(真我)を見ることはできません。パーソナリティとは、環境や状況に対する、個人的な反応の結果でしかないのです。
(マタイによる福音書 6:6,22、7:21-23、マルコによる福音書 7:6-8,15、8:34-35、ルカによる福音書 6:43-45、9:23-24、17:20-21、ヨハネによる福音書 4:23-24、6:63、7:24、8:32、使徒言行録 10:34、17:11、ローマの信徒への手紙 2:29、 12:2、コリントの信徒への手紙一 2:14、3:16、コリントの信徒への手紙二 5:14-16、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、5:16-17、エフェソの信徒への手紙 4:22-24、フィリピの信徒への手紙 3:8-9、コロサイの信徒への手紙 3:9-10、ペトロの手紙一 1:23、コレヘトの言葉 1:2、箴言 3:5、4:23、詩編 51:8-10、ヨハネの黙示録 2:17,23、3:20、21:3-4)