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『ディヴァイン・ヒーリング』紹介

本講話の内容は、『Divine Healing of Mind & Body』(1953初版)として出版されたものの日本語訳です。
日本語版としては、霞ヶ関書房(1972年刊)、株式会社ILAで出版されてきました。
しかし今般、原典版(複数)から再々度、見直し、一から翻訳をし直し、合わせて、参考となる聖書からの聖句の番号を引照させました。聖書の解釈は各自が幅広く、深く、自由に理解し、発展させることができるものです。あくまでも参考としての扱いです。

以下のような取り組み方が推奨されています。

  • 頻繁に読み、深く心に問う
  • 静かな時間を設け、沈黙の中で読み、瞑想する
  • 文字や言葉の背後にある真理が明かされるよう、心を静めて取り組む
  • 日々の研鑽による“目覚め”と共に歩む
  • 本書とともに聖書に親しむ

M.マード・マクドナルド・ベイン氏(1887-1955)紹介

治療家、講演家、作家として知られるマード・マクドナルド・ベイン氏(以下、ベイン博士)は、1887年6月21日、スコットランドのパース郡ケンモア教区で生まれました。“ベイン”は母親の旧姓で、後にこの名前を自分のペンネームにしました。

幼少期のベイン博士は、典型的なスコットランドの家庭の厳格な宗教的環境の中で過ごしました。6歳か7歳のとき、部屋の閉め切った窓に“主”イエスのはっきりとした特徴を見て、非常に感動的な霊的体験をしたと言われています。尋常ではないこの体験におびえたベイン博士が、すぐに気を失ったのは不思議としか言いようがありません。

その後、ベイン博士は他の人には見えない多くのものを見たり聞いたりすることができることに気づきました。また、高いところから飛び降りると、空中で減速して静かに着地できることにも気づきました。これはヨガの技でしたが、後にこのヨガについて詳しく理解することになります。

残念なことに、少年時代のちょうどその頃、兄と一緒に野原に出て、小川を飛び越えたときに有刺鉄線の上に降りて、有刺鉄線の1本が左目を貫通してしまいました。病院で外科医の叔父に手術をしてもらい、眼球を摘出しました。それ以来、ベイン博士は常に義眼を装着していました。

ベイン博士は若い頃、医者になるために、医学の道に進みました。しかし数年間、真剣に勉強した結果、医学の世界は基本的に物質主義的な側面が強すぎるという結論に達しました。

数年後、ベイン博士は「医学の勉強に費やした時間には感謝しているが、生命は生きているものであり、医学界が信じさせようとしているような死んだものではないことを感じていたし、それがわかっていた」と語っています。その後、ベイン博士は医学の勉強をやめ、より賢明な健康と癒やしに関わる道を追求し始めました。

1913年、ベイン博士は結婚し、2人の息子が生まれました。

1914年に宣戦が布告されると、ベイン博士は1915年11月12日付でオルダーショットのハイランド軽歩兵隊に入隊し、戦争中はこの部隊に所属しました。ベイン博士は非常に優れた笛吹きであったため、パイプメジャーのポジションに配属されました。1917年6月9日、労働隊に転属(軍曹)、1917年9月16日、労働隊臨時少尉に任命され、1919年3月16日、臨時中尉に任命され、1920年10月5日、中尉の階級を保ったまま任務を辞職し、兵役を解かれました。ベイン博士が戦時中に授与された勲章は、英国戦争勲章、戦勝勲章、軍事十字章(18年6月22日付のロンドン・ガゼット)です。

ベイン博士は講演の中で、ソンムの戦いで重傷を負い、4日間、戦場に放置されて死んだと語っています。以下はその体験について述べた言葉です。

“あの世”で過ごしていた間に、肉体に戻るように指示されました。集団墓地に埋葬するために死体を運び出しに来たとき、救急隊員の一人が私のうめき声を聞いて、『生きている人がいるぞ』と言ったのです。私はすぐに野戦病院に運ばれ、手術を受けました。医師が『もう片方の目を失う可能性がある』と言っているのをはっきりと聞きましたが、私は自分の中で“これはいけない”と思いました。手術中、私は何が行われているのかを認識していましたが、喉(のど)に傷があったため、話すことができませんでした。それで、体の外からこの手術を手伝いました。その後、療養し、回復し、軍に復帰し、中東作戦に参加しました」。

1920年に復員した後、ベイン博士は一時期、家族とともにオーストラリアに移住しました。子供たちが育ってくると、夫人は子供たちの教育のためにイギリスに戻る必要がありました。

この頃、ベイン博士はヒーリング・キャンペーンを開始し、世界23カ国を巡り、講演を行いました。この講演では、銀の弾丸で喉を撃たれて負傷した際に受けた治療法であるボイス・ディベロップメント(発声法)やスピーカー・トレーニングについても紹介しました。ベイン博士はどこへ行っても、教えること、癒やすことを使命としていました。

初期の頃は、たとえそれが自分の成長に適さないものであっても、自分が望んでイメージしたものは、最終的には手に入るという理論に基づいた心理学上の線に沿って教えていました。

しかしながら、人生の別のステージで、ベイン博士は何度かインドとチベットを旅し、ヨガを習得し、瞑想法や呼吸法に熟達した後、ベイン博士の立場は変わっていくことになります。これらのエクササイズの数々は、ベイン博士の著書や録音で詳しく紹介されています。

ベイン博士は、1930年代初頭、英国のマンチェスターにThe College Of Universal Scienceを設立し、ここで形而上学を教え始めました。そして、エディンバラで行われた交霊会で、「南アフリカに行きなさい」というスピリチュアルなメッセージを受け取りました。ベイン博士の妻子はイギリスに残っていましたので、義理の妹であるチホルム夫人が同行して家事を担当していました。

ベイン博士がケープタウンに到着し、最初に癒やしのセンターを設立したのは、1930年代半ばのことでした。このとき、さらなる霊的指導を受け、チベットに行くことを勧められました。スピリチュアルな研究に深く傾倒し、より深い知識と理解を求める努力を続けていたため、与えられた指示にすぐに従い、速やかに出発し、インドを経てヒマラヤへと旅を続けました。

ベイン博士の最後の2冊の著書『Beyond the Himalayas』と『The Yoga of the Christ』では、このときの危険な地域の旅について、狭い道で危険な水を渡ったりした命がけの体験が詳しく述べられています。

さらに、生存中のマスターから受けた高度な指示を実践するために時間を費やし、それが後のベイン博士の教えの基礎となったことを述べています。

また多くのラマの修道院を訪れ、常人の考えでは説明できないような、熟練者による驚異的な技を目撃しました。テレパシー、トゥモ、自由に肉体を離れる(幽体離脱)などの能力を身につけ、プラナヤマを習得し、数日間に及ぶ長い瞑想を通して、永遠なる実在に関する深い知識を得たといいます。

そうして、文明社会に復帰したベイン博士は、英連邦諸国をはじめ、カナダやアメリカにもセンターを設立しました。今でも各国でベイン博士の話やヒーリングを覚えている人がいます。私がカナダでお会いした女性は、何年も前にベイン博士が旅先で行った講演会に参加したことを覚えていました。また、私がしばらく文通していたアメリカの90歳を過ぎた開業医の方も、ベイン博士からヒーリングの方法を教わっていました。

1944年、ヨハネスブルグのエスコム公会堂で開かれた集会で、かつての教え子の一人であるアンドリュー・ハット氏が、ベイン博士を正式に紹介しました。ここでベイン博士は、自分のセンターであるユニバーサル・サイエンス・カレッジと、世界中の購読者に毎月手紙を送る「ザ・サイレント・ヒーリング・パワーの聖域」を設立したのです。

ベイン博士の名が広く知られるようになったのは、ヨハネスブルグでは木曜日に、プレトリアでは火曜日に、週2回の講義を行いながら、日々のヒーリング活動を続けていたからです。

カナダのマクドナルド・ベイン出版社から出版された『マンスリー・レター』は、現在、書籍1、2、3として販売されており、世界中に配布され、多くの人びとに助けと導きを与えています。

1940年代半ばには、ベイン博士の講演が有線録音で保存されるようになり、これらもカナダのマクドナルド・ベイン出版社からテープで入手できるようになりました。

ベイン博士の幽体離脱による遠隔地での癒やしの力は、多くの人に知られ、検証されています。助けを拒まれた人は一人もおらず、多くの人が様々な方法で助けられています。ベイン博士は、助けを求めている人のベッドサイドに現れることもあります。前述のように、ベイン博士は自分の意志で肉体を離れ、必要な場所に現れることができたからです。・・・・

(以上の引用・参照元) 
https://www.thomasstaudtverlagflensburg.de/home/english/brief-biography/

ベイン博士は1954年から南アフリカに居住し、毎週講演を行いました。イギリスへの訪問中の1955年2月、ロンドンで突然、亡くなられました。ベイン博士の本と教えは、今日でも、真実を求める人びとにインスピレーションと癒しの影響を与え続けています。