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“わたし” は“父の愛”、“父の力”、“父の叡智”、“父の永遠の命”によって、“父”を明かしました。わたしは、“わたし”を遣わされた“父”を惜しみなく与えるために来たのです。これこそが“人類”の救いなのです。

(ヨハネによる福音書 3:16-18、5:38-40、10:10、14:6,9、17:3、ヘブライ人への手紙 1:1-3、ヨハネの手紙一 5:11-12、コロサイ人への手紙 2:9)

“わたし”は肉から語るのではなく、“神の意識”から語っています。 “わたし”は神の中に永遠に住んでいます。今あなたたちに語っているのは、“わたし”の内におられる“父”なのです。

(ヨハネ福音書 7:16、8:28、10:38、14:10,20,24、コロサイの信徒への手紙 1:27、ヨハネの手紙一 4:12-13、コリントの信徒への手紙一 3:16)

“わたし”の“言葉”を受け容れるならば、あなたたちは自由になります。 “生ける父”が“わたし”を遣わされ、“わたし”が“父”によって生きているように、誰でも“わたし”を食べるものは、“わたし”によって生きるのです。

(ヨハネ福音書 6:57、8:31-32、10:10-11、14:23、15:5、詩篇 119:105)

“わたし”を食べるということは、“わたし”をあなたたちの中に受け容れ、あなたたち自身のものにするということです。そうすれば、“わたし”はあなたたちの中に、あなたたちは“わたし”の中に、そしてわたしたちは皆、“父”の中にいることになります。

(ヨハネ福音書 6:54-56、14:20、15:5、17:21、コリントの信徒への手紙一 10:16-17、エフェソの信徒への手紙 3:16-17)

“わたし”は常にあなたたちの心の内の扉を叩いています。あなたたちは扉の外に、いつも忍耐強く待っている“わたし”を見出すでしょう。そして、あなたたちが閉ざされた心の扉を開き、神を受け容れれば、“わたし”は中に入り、あなたたちと共に永遠に生き、あなたたちは常に“わたし”と共にいるようになります。

(ヨハネの黙示録 3:20、マタイによる福音書 7:7-8、ヨハネの福音書 14:23、申命記 30:19、箴言 23:26)

これは“天”から降って来た“パン”であり、この“パン”を食べる者は永遠に生きるのです。

(ヨハネの福音書 6:33,35,51-58、出エジプト記16:2-4、32-35、詩篇78:24-25、マタイによる福音書 4:4、箴言 9:5)

“わたし”は生きており、わたしが行った約束は“父の言葉”です。ゆえに、あなたたちは永遠に生きます。“わたし”に死はありません。“わたし”は“命”だからです。

(ヨハネの福音書 6:51、11:25-26、14:6、ヨハネの手紙一 1:1-2、ヨハネの黙示録 1:18、詩篇16:10-11)

おそらく、あなたたちの中にはわたしが語ったことをまだ理解していない者もいて、わたしの“言葉”に躓(つまず)きます。

(ヨハネの福音書 6:6,60,66、12:37、マタイによる福音書 13:13-15、マルコによる福音書 4:13-20、コリントの信徒への手紙一 1:18-25、出エジプト記 32:1-10、申命記 8:15-20、箴言 1:22-33、イザヤ書 28:9-13、エゼキエル書 3:7)

人の内なる“神の霊”は「“わたし”はある」です。旧約聖書を読めば、モーゼが燃える柴に気づいたとき、その中から「“わたし”はある」と発した声があったと書かれていることがわかるでしょう。諸々の預言者たちに与えられ、大勢の人びとに伝えられた「“力” の秘密の“言葉”」がこれだったのです。彼らはそれを口にしましたが、その意味は理解しませんでした。しかし理解できた者は、預言者たちの叡智に達することができたのです。

(出エジプト記3:13-15、イザヤ書 42:8、申命記 6:4-9、ヨハネによる福音書 8:24,28,58、10:34、13:19、14:6、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13)

人の内なる“神の霊”は「“わたし”はある」です。“わたし”は“霊”であり、“霊”はその源に昇っていきます。生命を与えるのは“霊”であり、肉体自体に生命はないのです。“わたし”があなたたちに語った“言葉”は、“霊”であり、“命”なのです。

(出エジプト記3:13-15、イザヤ書 42:8、申命記 6:4-9、ヨハネによる福音書 8:24,28,58、10:34、13:19、14:6、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13)