講話 3 – 21

気づき

あなたたちは永遠に生きており、“自己”は永遠の“命”そのものであり、“命”から離れて生きることはできない、ということを考えたことがありますか。あなたたちの“意識”は“命”が体に現れる手段であり、体も“命”から切り離されて生きることはできません。“意識”は“命”そのものにあり、“内なる統率力”となっているのです。「“わたし”は“命”である」。

(ヨハネによる福音書 14:6、詩篇 36:9、コリントの信徒への手紙一 15:45、コロサイの信徒への手紙 3:4、ヨハネの手紙一 5:11)

講話 3 – 22

気づき

この“力”は個人を通じて現れますが、外からのエネルギーはすべて障害となることを知りなさい。“キリスト”は常に活動的であり、決して静止することはありません。“キリスト”は、常に内から働きかける創造的エネルギーであり、常に活動している沈黙であり、常に働かれている“父”なのです。あなたたちがすべてを“キリスト”に委ね、静かに待つならば、“神の息”は静謐(せいひつ)のうちに、確固たる整然とした反応として、あなたたちの体のすべての細胞を更新します。

(詩篇 46:10、104:30、ヨハネによる福音書 5:17、14:16、ローマの信徒への手紙 8:11、ヨハネの手紙一 4:12、コリントの信徒への手紙二 3:18、ヨハネの黙示録 1:8、21:5-6、22:13)

講話 3 – 23

気づき

「“わたし”は“命”である」――これが“わたし”のメッセージです。あなたたちと“わたし”は、神の前で同じです。“神の霊”が“わたし”を創り、神の全能の“力”が“わたし”に宿っています。そして、同じ“霊”があなたたちの内にも宿っているのです。

(ヨハネによる福音書 10:30、14:6,20、使徒言行録 17:28-29、ヨハネの黙示録 1:8、21:5-6、22:13)

講話 3 – 24

気づき

“わたし”は、“わたし”の“神性”は人類とはかけ離れたものであると宣言するために来たのではありません。“わたし”は人類の中にあり、人類は“わたし”の中にあります。“わたし”の言葉を理解することによって、すべての人が“キリスト”を“人類の救い主”として受け容れるようになるでしょう。

(ヨハネによる福音書 3:16、10:30、14:20、ヨハネの手紙一 4:12、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、ローマの信徒への手紙 8:1-2、イザヤ書 42:1、詩篇 82:6)

講話 3 – 25

気づき

“神のキリスト”とは、わたしたち一人ひとりのすべてに“内在している神”が、“生ける神”として、“父”が“父ご自身”を現されているのであり、それ以外に存在するものはありえません。初めから神のみが存在し、神のみが永遠に生きておられるのです。“キリスト”は分離されることはなく、あなたたちの内なる“キリスト”と、“わたし”の内なる“キリスト”は同じものなのです。“キリスト”とは、生ける“神ご自身”の現れなのです。ですから「わたしは“命”である」と言うのです。“父”はご自身の内に“命”を持たれ、その同じ“命”を持つことを“子”にも許されたのです。

(ヨハネによる福音書 1:4、5:26、10:30、14:9-10、ヨハネの手紙一 4:12、コロサイの信徒への手紙 1:19、出エジプト記 3:14、イザヤ書 43:10)

講話 3 – 26

気づき

神の子である“わたし”は、神の“創造計画”の中で“わたし”が占めるべき位置を理解し、その位置を占めています。創造の過程で求められたものはどんなものであれ、対応する位置を占めます。なぜなら、“わたし”はすべてを支配していることを証明したからです。もしあなたたちが“わたし”を信じ、“わたしの言葉”に従うならば、あなたたち自身がこれを証明することになるのです。

(マタイによる福音書 28:18、ヨハネによる福音書 1:3、14:13-14、コロサイの信徒への手紙 1:16、コリントの信徒への手紙一 3:21-23、ヘブライ人への手紙 1:2、詩篇 82:6、箴言 3:19)

講話 3 – 27

気づき

ヨハネは言いました。

初めに“言葉”があった。
“言葉”は、神とともにあった。
“言葉”は神であった。
この“言葉”は、初めに神と共にあった。

すべては“彼”の御手によって創られた。
創られたもので、“彼”の御手によらないものは何一つ無かった。
“命”は“彼”のうちにあり、この“命”は人の“光”であった。
その“光”が闇の中で輝いている。
闇がそれに打ち勝つことはなかった。
“彼”は世に来るすべての人を照らす真の“光”であった。
“彼”は世にいて、世は“彼”の手の下にあったが、世は“彼”を知らなかった。
“彼”は自分の家族のところに来たが、“彼”の家族は“彼”を受け入れなかった。
しかし、“彼”の名を信じた者は神の子となった。

彼らは自分たちが、血によってではなく、肉の意志でも人の意志でもなく、父なる神から生まれたことを知っている。
そしてこの“言葉”が肉と成り、我らの中に宿られた。

(ヨハネによる福音書 1:1-14、ヨハネの黙示録 1:18、創世記 1:1、出エジプト記 3:14、詩篇 36:9、イザヤ書 9:2)

講話 3 – 28

気づき

これはヨハネが当時のアラム語で書いた言葉の真の解釈です。このように、血縁によってではなく、肉の意志によってでもなく、父なる神から生まれたことを知っている人びとは、永遠の“命”を今得ていることが、はっきりと示されています。神が創造するということは、神ご自身がそのものに成るということです。闇は人の“光”に勝つことはありませんでした。なぜならこの“光”は、世に来るすべての魂を照らす“光”だからです。この“光”はすべての人の内にあります。なぜなら最初から人類の中にあったからです。人の内なるこの“光”こそ“神のキリスト”です。

(ヨハネによる福音書 1:1-5, 9-14、3:5-6、コロサイの信徒への手紙 1:16、コリントの信徒への手紙一 15:45、ヨハネの第一の手紙 1:9、詩篇 82:6、箴言 3:19)

講話 3 – 29

気づき

これがすべての生きとし生ける魂に宿っている“言葉”です。まことにあなたたちに言っておきます。生まれてくるすべての赤子は“神の言葉”によって生まれるのであり、その“言葉”とは“永遠に生きるキリスト”なのです。これについて、肉体はこのことに何も関与することはできません。

(ヨハネによる福音書 1:1-14、3:5-6、詩篇 139:13-16、イザヤ書 49:1)

講話 3 – 30

気づき

それぞれ一人ひとりが現在の想念と行為によって未来を創造しています。そして“今”とは、どんなときでも現在のことなのです。創造することができるのは、永遠なる“今”のみです。未来ではなく、過去でもありません。

(コリントの信徒への手紙二 5:7、マタイによる福音書 6:34、フィリピの信徒への手紙 4:8、箴言 16:9、詩篇 90:12、コヘレトの言葉 3:1-8、ヤコブの手紙 4:14)