講話 6 – 121
気づき“わたしのもの”は、すべて、“あなたのもの”であり、“あなたのもの”は、“わたしのもの”です。そうして“わたし”は、“あなた”によって栄光を受けています。
(マタイによる福音書 11:27、28:18、マルコによる福音書 9:37、ルカによる福音書 10:22、ヨハネによる福音書 16:15、17:5,10、使徒言行録 2:36、ローマの信徒への手紙 8:17、コリントの信徒への手紙一 3:21-23、コリントの信徒への手紙二 4:6、エフェソの信徒への手紙 1:22-23、フィリピの信徒への手紙 2:9-11、コロサイの信徒への手紙 1:15-17、ヘブライ人への手紙 1:2-3、箴言 8:22-30、詩編 2:8、24:1、ヨハネの黙示録 5:13、21:22-23、22:1-3)
講話 6 – 122
気づき“わたし”には、死と呼ばれる体験によって、変化はありませんでした。なぜなら、“命”は分割されず、“命”に分裂はなく、いわゆる死によって、“生命”が中断されることはないからです。
(マタイによる福音書 12:25、マルコによる福音書 3:24-25、ルカによる福音書 11:17、ヨハネによる福音書 11:25-26、14:19、使徒言行録 2:24、ローマの信徒への手紙 8:38-39、コリントの信徒への手紙一 15:54-55、コリントの信徒への手紙二 4:10-11、フィリピの信徒への手紙 1:21、テサロニケの信徒への手紙一 4:13-14、テモテへの手紙二 1:10、ヘブライ人への手紙 2:14-15、7:16、ペトロの手紙一 3:18、イザヤ書 25:8、ダニエル書 12:2-3、箴言 12:28、詩編 16:10、23:4、ヨハネの黙示録 1:18、21:4、22:1-5)
講話 6 – 123
気づき“命”は、決して中断されず、破壊されず、妨害されることもないのです。これこそが、“わたし”が弟子たちに明らかに示したことであり、今、あなたたちにも示していることなのです。
(マタイによる福音書 19:16、マルコによる福音書 10:29-30、ルカによる福音書 20:38、ヨハネによる福音書 5:24、11:25-26、14:19、17:3、使徒言行録 13:48、ローマの信徒への手紙 6:23、コリントの信徒への手紙一 15:54-55、コリントの信徒への手紙二 4:8-9、フィリピの信徒への手紙 1:21、コロサイの信徒への手紙 3:3-4、ヘブライ人への手紙 7:16,24-25、ペトロの手紙一 1:23、イザヤ書 25:8、ダニエル書 12:2-3、箴言 12:28、詩編 16:10、 23:4、ヨハネの黙示録 1:18、21:4、22:1-5)
講話 6 – 124
気づき“命”に、死はありません。「“わたし”はある」は、いわゆる死を体験しても変わらないのです。“霊”、すなわちあなたたちの内なる“命”にも、変化はないのです。なぜなら、あなたたちは永遠に存在しており、死ぬことはできないからです。“わたし”が「“わたし”はある(“I am”)」であるように、あなたたちも「“わたし”はある(“I am”)」なのです。わたしを“死”から蘇らせてくださった“父の霊”は、あなたたちの中にも宿っているのです。
(マタイによる福音書 22:32、マルコによる福音書 12:27、ルカによる福音書 20:38、ヨハネによる福音書 1:12-13、8:24,28,58、10:34、11:25-26、13:19、14:6,9-10、18:5-6,8、使徒言行録 2:32、ローマの信徒への手紙 8:11、コリントの信徒への手紙一 15:26,54-57、コリントの信徒への手紙二 4:10,14、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 2:4-5、フィリピの信徒への手紙 1:21、コロサイの信徒への手紙 3:3-4、ヘブライ人への手紙 7:16、出エジプト記 3:14、イザヤ書 26:19、箴言 12:28、詩編 16:10、23:1, 4、 82:6、90:2、ヨハネの黙示録 1:18、21:4、22:5)