講話 2 – 91
気づき肉体感覚の意識が“キリスト意識”(Christ Consciousness)に目覚めると、肉体感覚は“キリスト意識”へと引き上げられます。“わたし”は“キリスト”として、この世とこの世にあるすべてのものに打ち克ちました。“わたし”は死すべき感覚、肉体的な想念、感覚というサタンに打ち克ったのです。あなたたちもそうなるのです。こうしてあなたたちは、“天からの声”は“神の意識”であることを悟るのです。
(ダニエル書 4:28、マタイによる福音書 3:17、マルコによる福音書 1:11、使徒言行録 11:9、ヨハネによる福音書 12:23-28、16:33、コリントの信徒への手紙一 2:14-16、ローマの信徒への手紙 12:1-2、ヘブライ人への手紙 2:14-15、エフェソの信徒への手紙 6:7-19、ペトロの手紙二 1:11,17)
講話 2 – 92
気づき人は自らの考えによって、自らの牢獄の壁を作ってしまいます。その考えによって、自らを制約してしまいます。たとえそれが最高に偉大な観念であっても、一つの制約にすぎません。重要なのは「“命”とは何か」ではなく、「これが“命”である」です。
(ヨハネによる福音書 14:6、箴言 23:7、マタイによる福音書 6:22-23、9:29、ローマの信徒への手紙 12:2、コリントの信徒への手紙一 13:11-12、フィリピの信徒への手紙 4:8)
講話 2 – 93
気づき目に見える現実の創造は、目に見えない内なる“原因”によって生じているものです。あなたたちの肉体は、さらなる高度な進化のための出発点として機能しています。その進化は、常に存在する永遠にして唯一の実体であり、“力”であり、“命”である“霊の全体性・統一性”を意識的に実現することによって成し遂げられなければなりません。その現れが“愛”なのです。
(ヨハネによる福音書 1:1-3、4-24、創世記 1:1-2、コリントの信徒への手紙一 15:45、ヘブライ人への手紙 11:1-3、ヨハネの手紙一 4:7-9、エフェソの信徒への手紙 4:15、ヨハネの黙示録 4:11、19:6、21:1-4)
講話 2 – 94
気づき心(heart)を尽くし、魂(soul)を尽くし、思い(mind)を尽くして、あなたの神を愛しなさい。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。これが人類の拠って立つべき礎(いしずえ)となる法です。
(マタイによる福音書 5:43-48、7:12、22:37-40、マルコによる福音書 12:30、ルカによる福音書 10:27-37、ヨハネによる福音書 13:34-35、ヨハネの手紙一 2:7-11、4:20-21、レビ記 19:18、申命記 6:4-5、列王記下 23:25)
講話 2 – 95
気づき放蕩(ほうとう)息子のたとえ話の中に“父の愛”が表現されています。放蕩息子の放縦、悔い改め、自己自身を取り戻すこと、すなわち、真の霊的回復までが示されています。試練と苦難に見舞われ、“父”からの相続財産を使い果たし、召使いになることを心に決めて帰ってきます。しかし“父”は、昔も今も自分の息子であるとして迎え入れます。
(ルカによる福音書 15:11-32、イザヤ書 54:7-10、エゼキエル書 18:21-23、ヨハネによる福音書 3:16)
講話 2 – 96
気づき息子がたとえどんなことをしようとも、“父の愛”はその過ちを消し去ってしまいます。“父の愛”はそれほどまでに大いなるものなのです。このことは、あらゆる人生において、どれほど真実なことでしょうか。過ちは、“真理”に気づいたときに正されるのです。過ちというものは、さまざまな状況から立ち上がり、自己自身を回復するための経験なのです。過ちは正されれば消え去ってしまいます。“真理”は最初からそうであったように、“真理”のままなのです。
(ルカの福音書 15:11-32、イザヤ書 1:18、エレミヤ書 31:34、使徒言行録 3:19、コリントの信徒への手紙二 5:17、ヨハネの黙示録 21:1-4、22:1-7)
講話 2 – 97
気づき悔い改めが、赦しの前にあるのです。“父の愛”がわかったとき、心の中から悔い改めが生じ、赦されるのです。そのとき人は自分の真の霊的状態を回復し、神の中にいる自己を自覚し、すべてのものに仕え、自分にしてもらいたいことを人にするようになるのです。あなたたちが“放蕩息子”のようになるときに、あなたたちの前に祝宴が準備されるのです。兄弟姉妹に対する“愛”をもって、今すぐにその宴に参加しなさい。“愛”によってのみ、父があなたたちのために用意してくださった祝宴に参加することができるのです。
(ルカの福音書 15:11-32、マタイによる福音書 5:7、6:14-15、7:12、20:25-28、ヨハネの手紙一 4:18-19、エフェソの信徒への手紙 4:22-24、イザヤ書 55:7、コリントの信徒への手紙二 2:7-8)
講話 2 – 98
気づきあなたたちも“世”でこのことを学ばなければならないのです。これまであなたたちは、悪いことをしたとあなたたちが恣意的に裁いてきた人びとに対して、どれだけの愛の出し惜しみをしてきたことでしょう。それがどんなことであっても、あなたたちには関わりのないことなのです。すべては、“父”とその子の間の問題です。このことを覚えておけば、人を批判することはやめ、この武器はまず自分に向けるようになるはずです。
(マタイによる福音書 5:9、6:14-15、7:1-5、ヨハネの手紙一 4:20、ルカによる福音書 6:41-42、ローマの信徒への手紙 14:4、ヤコブの手紙 4:11-12、エゼキエル書 18:20、コリントの信徒への手紙一 4:5)
講話 2 – 99
気づき自分の欠点に最初に気づくことによって、他の人びとをよく理解できるようになります。
(マタイの福音書 6:14-15、7:3-5、ルカによる福音書 6:39-42、ガラテヤの信徒への手紙 6:1、ローマ人への手紙 2:1、ヤコブ書 4:6、フィリピの信徒への手紙 2:1-4、ヨハネの手紙一 4:8、箴言 3:34、14:15、サムエル記一 16:7、詩篇 139:23-24)
講話 2 – 100
気づきあなたたちはこれまで、とかく人びとを非難し、責めがちでした。責めてはいけません、責められないためです。裁いてはいけません、裁かれないためです。まず自分の目から梁(はり)を取り除きなさい。そうすれば兄弟の目の刺(とげ)をどう取り除いたらよいか、以前よりもよくわかるようになるでしょう。
(マタイによる福音書 5:9、6:14-15、7:1-5、ルカによる福音書 6:37-42、ヨハネの手紙一 4:20、ローマの信徒への手紙 2:1、詩篇 50:16-21)