講話 11 – 1

気づき

全能者が、個の“命”として現れているのが、“キリスト”です。この“キリスト”はあなたたちの中に、そして生きとし生ける魂すべての中に宿っています。“キリスト”こそ、あなたたちの“命”であり、あなたたちの“意識”なのです。“キリスト”によってあなたたちは生き、“キリスト”によって永遠となり、“キリスト”によって救いを得るのです。

(マルコによる福音書 1:11、マタイによる福音書 16:16、ヨハネによる福音書 1:1-3、10:30、14:6、20:31、ルカによる福音書 4:18-19、ヘブライ人への手紙 1:1-2、コリントの信徒への手紙一 3:16、8:6、コロサイの信徒への手紙 1:15-20、ローマの信徒への手紙 8:10、ペトロの手紙一 1:23、ヨハネの手紙一 4:9、ヨハネの黙示録 1:5-6、21:3,6)

講話 11 – 2

気づき

これこそ大いなる“宇宙意識”であり、地球全体を包んでいる内なるイルミネーション(光明)です。これが一人ひとり、すべての人びとに理解されるとき、地球全体が変容し、“真理”の実現を通じて、無智の状態から脱却するでしょう。

(ヨハネの黙示録 7:17、21:1,23-24、イザヤ書 11:9、ヨハネによる福音書 8:12,32、コリントの信徒への手紙二 4:6、エフェソの信徒への手紙 5:14)

講話 11 – 3

気づき

各人の内なる“普遍性”が、普遍的なるものと認識されたとき、まさにそれは普遍なるものとなります。このようにして、個人の背後にある“全体性”が、各人によって実現されるようになるのです。

(イザヤ書 45:6、ヨハネによる福音書 17:21、マルコによる福音書 4:11、ルカによる福音書 8:10、コリントの信徒への手紙一 12:12、エフェソの信徒への手紙 4:6、マタイによる福音書 22:39、ペトロの手紙一 1:23、ヨハネの黙示録 21:24、22:2)

講話 11 – 4

気づき

個人となった“普遍なるもの”が、“キリスト”です。この事実は、一人ひとりの各個人によって認識されなければなりません。そうして各個人は、自分の背後に、人類全体の背後に、“全体なるもの”があることを知ります。分離・分割というものはないからです。この“全体性”が完全に理解されるとき、人の中に神が現れるのです。

(ヨハネによる福音書 10:30、14:6,20、17:21-23、エフェソの信徒への手紙 4:6、コロサイの信徒への手紙 1:15-16、コリントの信徒への手紙一 12:12-13、ヘブライ人への手紙 1:1-2、ペトロの手紙一 1:23、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、ヨハネの黙示録 1:1、21:3)

講話 11 – 5

気づき

神には、分裂は存在しません。“多”の中に、自己自身を表現している“渾一性” (こんいつせい)(すなわち多即一・一即多)が表現されており、神の“意識”は、神の創造物すべてに現れており、神の創造物すべては、神の“意識”の中に存在しています。あなたたちの中心におられる神は、全能なのです。

(イザヤ書 43:10、45:18、詩篇 139:7-10、エフェソの信徒への手紙 4:6、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 14:23、17:21-23、マタイによる福音書 6:33、コロサイの信徒への手紙 1:17、ヨハネの黙示録 21:22、22:5)

講話 11 – 6

気づき

このことを理解し始めると、あなたたちは、自分を取り巻いている状況から意識が引き上げられ、真に、生来保有している権利である、内なる“神のキリスト”に入って行きます。

(ヨハネによる福音書 3:3、8:32、10:38、マルコによる福音書 8:34、ルカによる福音書 9:23、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、ローマの信徒への手紙 8:14、コリントの信徒への手紙二 3:18、マタイによる福音書 6:22、エフェソの信徒への手紙 3:17、4:22-24、コリントの信徒への手紙一 15:49、ヨハネの黙示録 3:20、21:7)

講話 11 – 7

気づき

そのとき、世界は、時間と空間の制約から脱することになり、本来の“霊”の自由を獲得することになります。

(ヨハネの黙示録 21:1,4、イザヤ書 65:17-18、ダニエル書 12:2、マルコによる福音書 10:29-30、ルカによる福音書 17:20-21、コリントの信徒への手紙二 3:17、5:16、ヨハネによる福音書 8:32,36、ペトロの手紙一 1:23、ガラテヤの信徒への手紙 4:9、エフェソの信徒への手紙 6:12)

講話 11 – 8

気づき

時間と空間は、“全体性”や無限の“完全性”を理解する上で、常に障害となってきました。“無限性”を悟るためには、時間や空間は存在してはならないのです。

(詩篇 90:2、139:7-10、マルコによる福音書 13:31、ルカによる福音書 20:34-36、コリントの信徒への手紙一 13:12、コリントの信徒への手紙二 5:7、ヨハネによる福音書 4:24、14:6、17:3、エフェソの信徒への手紙 1:10、3:19、ヨハネの黙示録 10:6、21:1-4)

講話 11 – 9

気づき

“実在”には、始まりも終わりもありません。“実在”は、人間によって創造されるものではありません。しかし人間は、自分の意識の中に、時間や空間を創り出します。これは幻想です。 “全きもの”を理解し、認識していないのです。時間も空間も、始まりも終わりもない、“全きもの”があるだけなのです。唯一の“全きもの”があり、この“全きもの”が、今、自己を現しているのです。これが“実在”です。“わたし”は“実在”と一つであり、“実在”は“わたし”と一つです。これが“キリスト意識”の認識であり、この認識によって、あらゆることが可能になるのです。

(詩篇 90:2、コリントの信徒への手紙一 13:12、エフェソの信徒への手紙 3:19、4:6、コロサイの信徒への手紙 1:17、ヨハネによる福音書 10:30、14:6,20、17:3、マルコによる福音書 13:31、ルカによる福音書 1:33、コリントの信徒への手紙二 5:7、ヨハネの黙示録 1:8、21:6)

講話 11 – 10

気づき

人間性(personality)を超えたところを見なさい、それは外に現れている現象でしかありません。自己自身の外に、“真理”を見出すことはできません。あなたたちは、現象として現れている自分や、周囲の人びとを、超越して見なければなりません。人間性の中に、“真実”(真我)を見ることはできません。人間性は、環境や状況に対する、個人の反応の結果でしかありません。

(エゼキエル書 3:26、箴言 3:5、マルコによる福音書 8:34-35、ルカによる福音書 9:23-24、17:20-21、ヨハネによる福音書 4:24、8:32、マタイによる福音書 6:22、コリントの信徒への手紙一 3:16、コリントの信徒への手紙二 5:14、ペトロの手紙一 1:23、ヨハネの黙示録 2:17、21:3-4)