講話 10 – 1

気づき

知的な知識だけでは、十分ではありません。悟りを得ているハート(心・精神・心臓・胸・中心)によってのみ、“父”を知ることができるのです。

(マタイによる福音書 5:8、6:22-23、11:25、13:15、マルコによる福音書 8:17、12:33、ルカによる福音書 24:45、ヨハネによる福音書 7:17、14:6-9,21、17:3、使徒言行録 16:14、28:27、ローマの信徒への手紙 1:21、10:10、コリントの信徒への手紙一 2:14、10:31、コリントの信徒への手紙二 3:16、エフェソの信徒への手紙 1:17-18、フィリピの信徒への手紙 1:9、ヘブライ人への手紙 8:10-11、イザヤ書 29:13、55:1-2、箴言 2:2-6、3:5-6、詩編 51:8、111:10、119:34、ヨハネの黙示録 2:23、4:4、5:1-5、21:1-5、22:1-2)

講話 10 – 2

気づき

理性は、論理的に思考することができます。論理的思考は良いものです。しかし、この “気づく・わかる”という認識は、論理的思考を超えたものでなければなりません。あなたたちは、それを感じなければいけません。それをあなたたちの心の内で、理解する必要があるのです。

(マタイによる福音書 13:15、16:17、マルコによる福音書 12:33、ルカによる福音書 24:32、ヨハネによる福音書 6:45、7:17、14:26-27、17:3、使徒言行録 16:14、ローマの信徒への手紙 10:10、コリントの信徒への手紙一 2:10-14、8:1、コリントの信徒への手紙二 3:16、エフェソの信徒への手紙 1:17-18、フィリピの信徒への手紙 1:9、4:7、ヘブライ人への手紙 8:10-11、ヤコブの手紙 1:5、エレミヤ書 31:33、箴言 2:6、3:5-6、4:23、詩編 51:8、119:34,105、139:23-24、ヨハネの黙示録 2:7,23、3:20)

講話 10 – 3

気づき

本当に感じることができるようになる前に、あなたたちの心は、まず、“愛”に満たされていなければなりません。これこそが、“キリスト”であり、世に現れた力であり、人類全体を支える“力”なのです。

(マタイによる福音書 15:9-10、22:37-39、25:40、マルコによる福音書 12:33、ルカによる福音書 4:18、6:36、ヨハネによる福音書 1:14、13:34-35、15:9、使徒言行録 4:12、10:38、ローマの信徒への手紙 5:5、8:35,37、コリントの信徒への手紙一 13:1-4、コリントの信徒への手紙二 5:14-15、ガラテヤの信徒への手紙 5:6、エフェソの信徒への手紙 3:17-19、フィリピの信徒への手紙 2:1-2、コロサイの信徒への手紙 1:16-17、ヘブライ人への手紙 1:3、ヤコブの手紙: 3:17、ヨハネの手紙一 4:8、箴言 8:31、10:12、詩編 33:5、36:、103:17、ヨハネの黙示録 1:5-6、5:6、 21:3-4,23)

講話 10 – 4

気づき

この“力”は、個々人別々に独立して働いているのではなく、人類全体に“絶対合一”のものとして内在しているということを、あなたたちが認識したとき、この“力”は、あなたたちのために個別に働き始めるのです。あなたたちの内なるこの力の“絶対合一性”に気づくにつれて、あなたたち自身が、それを感じ、知り、“愛そのもの”となるのです。

(マタイによる福音書 5:48、6:22-23、マルコによる福音書 12:29-31、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 1:16、14:6,20、15:1-5,9-10、17:21-23、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 5:5、8:10、コリントの信徒への手紙一 6:17、12:12-27、13:1-4,12-13、コリントの信徒への手紙二 5:17、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 3:17-19、4:4-6,13-16、フィリピの信徒への手紙 2:2、コロサイの信徒への手紙 1:27、ヘブライ人への手紙 10:22、12:1-2、ヨハネの手紙一 4:8、イザヤ書 28:16、箴言 4:23、詩編 36:10、103:1-2、139:7-10、ヨハネの黙示録 7:9、21:3,6-7)

講話 10 – 5

気づき

“神の叡智”への扉は、“ハート”(心・精神・胸・中心)にあります。このことは、あなたたちの“ハート”でしか理解することができないのです。

(マタイによる福音書 5:8、6:22、13:15、マルコによる福音書 7:21-22、12:33、ルカによる福音書 2:19、24:32、ヨハネによる福音書 7:38、14:6,17,21,27、使徒言行録 16:14、ローマの信徒への手紙 10:10、コリントの信徒への手紙一 2:10-12、コリントの信徒への手紙二 3:16、エフェソの信徒への手紙 1:17-18、フィリピの信徒への手紙 1:9、4:7、ヘブライ人への手紙 4:12、8:10-11、ヤコブの手紙 1:5、箴言 2:2-6、4:23、詩編 51:8-10、119:34,105、ヨハネの黙示録 2:7,23、3:20、21:3-4)

講話 10 – 6

気づき

考えることは、理性に導き、偽りを識別し、真実を知り、理解することができるようにします。思考はハート(心・精神・胸・中心)への入口ですが、ハートが“キリスト愛”で満たされていなければ、“キリスト力”は、あなたたちにはないのです。

(マタイによる福音書 6:21、22:37-38、マルコによる福音書 7:21-22、12:33、ルカによる福音書 6:45、ヨハネによる福音書 14:6,23-24、15:4-5、使徒言行録 8:21-22、16:14、ローマの信徒への手紙 12:2、コリントの信徒への手紙一 2:14-16、13:2、コリントの信徒への手紙二 3:16、エフェソの信徒への手紙 3:17-19、フィリピの信徒への手紙 1:9、4:7、ヘブライ人への手紙 4:12、8:10、ヤコブの手紙 1:5、エレミヤ書 31:33、ペトロの手紙一 3:15、ヨハネの手紙一 4:8,16、箴言 3:5、4:23、15:14、詩編 51:8,12、73:26、ヨハネの黙示録 2:4-5、3:20、21:6)

講話 10 – 7

気づき

思考は、効果的に理性を働かせることができます。しかし、 “わたし” がいう“わかる(理解)”とは、理性を超えたところにあります。それは理性の背後にあり、理性を超越した存在であり、万物の“創造”の原因そのものが、“わかる”ということなのです。

(マタイによる福音書 11:27、 13:11,15、マルコによる福音書 4:11、12:33、ルカによる福音書 10:21、 24:45、ヨハネによる福音書 1:1-3、14:6、16:13、17:3、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 11:33、コリントの信徒への手紙一 2:9-12、14-16、コリントの信徒への手紙二 3:16、エフェソの信徒への手紙 1:17-18、3:9、フィリピの信徒への手紙 4:7、ヘブライ人への手紙 11:3、ヤコブの手紙 3:17、イザヤ書 55:8-9、箴言 3:5-6、8:22-30、9:10、詩編 104:24、139:6、ヨハネの黙示録 4:11、17:1、21:5、10:4)

講話 10 – 8

気づき

“真理”は、ただ一つです。 “わたし” は自らが理解していることを、多くのやり方で繰り返し語っています。これは 、“わたし” が知っているもっとも簡単で、最良の方法です。他の方法は用いません。

(マタイによる福音書 7:13-14、13:52、マルコによる福音書 4:33、ルカによる福音書 8:10、ヨハネによる福音書 14:6、16:13、17:17、30:5、使徒言行録 17:11、20:27、ローマの信徒への手紙 15:15、コリントの信徒への手紙一 1:18、13:6、コリントの信徒への手紙二 4:2、エフェソの信徒への手紙 4:5,15、フィリピの信徒への手紙 3:1、コロサイの信徒への手紙 1:28、テモテへの手紙一 3:16、テモテへの手紙二 2:15、3:16、ヘブライ人への手紙 13:8、ヤコブの手紙 1:5,17、申命記 6:6-9、イザヤ書 55:11、箴言 8:6-11、22:21、詩編 1:2、25:5、33:4、43:3、86:11、119:11,15,18,48,160、ヨハネの黙示録 1:1,8、19:11)

講話 10 – 9

気づき

さまざまな考えや言葉、語句を集め、それらを繰り返し、心に刻もうとする多くの人がいます。しかしそうすることは、ほとんど価値がありません。理解を伴っていない言葉やその反復は、“愛と叡智”である“キリスト力”の開発には、ほとんど役に立たないのです。

(マタイによる福音書 6:7、7:24-27、15:8-9、マルコによる福音書 7:6-7、ルカによる福音書 6:46、ヨハネによる福音書 4:23-24、6:63、8:31-32、使徒言行録 17:11,30、ローマの信徒への手紙 10:10、12:2、コリントの信徒への手紙一 2:14-16、13:1-2、 14:15、コリントの信徒への手紙二 3:6、エフェソの信徒への手紙 1:17、5:17、フィリピの信徒への手紙 1:9、テモテへの手紙二 3:7、ヤコブの手紙 1:5,22、箴言 2:2-5、4:7、14:6、18:15、詩編 51:18-19、119:34、ヨハネの黙示録 2:7、3:1、13:9、17:9)

講話 10 – 10

気づき

“わたし” が言いたいことは、こういうことです。あなたたちが、自己の“ハート”(心・精神・胸・中心)で理解し始め、ハートが純粋になると、そこに“キリスト”が住まわれるのです。言葉や考えは、知性に属するものですが、観念を超えて本当に感じるのは、“ハート”なのです。観念や考えは、“真理”ではありません。言説や格言も、“真理”ではありません。信念や信条、信仰でさえも、“真理”ではありません。“真理”は、それらすべてを超えたところにあるのです。

(マタイによる福音書 5:8、15:8-9、マルコによる福音書 7:6-8、12:33、ルカによる福音書 6:45、ヨハネによる福音書 1:17、8:32、14:6,23、使徒言行録 15:8-9、ローマの信徒への手紙 2:29、10:10、コリントの信徒への手紙一 2:4-5,14-16、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 3:17、フィリピの信徒への手紙 4:7、ヘブライ人への手紙 4:12、ヤコブの手紙 1:5、3:17、ヨハネの手紙一 4:8、エレミヤ書 31:33、箴言 4:23、15:14、詩編 51:12、ヨハネの黙示録 2:4-5、3:20)