講話 8 – 101
気づき外なる人は“地”であり、内なる人は“天の主”です。“天の主”は、すべてを統治しています。なぜなら、すべての力が彼に与えられており、彼こそが、“主”であり、“律法”であるからです。
(マタイによる福音書 28:18、マルコによる福音書 2:10、12:36、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 1:3,14、14:6、使徒言行録 2:36、10:36、ローマの信徒への手紙 7:22-23、コリントの信徒への手紙一 15:47、コリントの信徒への手紙二 4:16、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 1:20-22、コロサイの信徒への手紙 1:16-18、3:9-10、ヘブライ人への手紙 1:3、イザヤ書 9:6-7、33:22、創世記 1:27、箴言 20:27、詩編 51:10、103:19、110:1-7、ヨハネの黙示録 19:16)
講話 8 – 102
気づき“律法”は、“主”の上にあるのではなく、“主”が、“律法”の上にあるのです。「“わたし”が“律法”である」と、“主”は言われています。
(マタイによる福音書 5:17-18、12:8、マルコによる福音書 2:27-28、ルカによる福音書 6:5、ヨハネによる福音書 1:17、8:58、14:6、使徒言行録 13:39、ローマの信徒への手紙 3:21、10:4、コリントの信徒への手紙一 9:21、コリントの信徒への手紙二 3:6、ガラテヤの信徒への手紙 3:24-25、エフェソの信徒への手紙 2:15、ヘブライ人への手紙 7:19、出エジプト記 3:14、20:1-2、イザヤ書 33:22、箴言 8:15-16、28:9、詩編 19:8、119:105,142、ヨハネの黙示録 19:13,16)
講話 8 – 103
気づきあなたたちがこのことを認識したとき、あなたたちは、自分の目で、“全能者”の生ける現れを見ることになります。なぜなら、 “ご自身”の似姿として、“キリスト”を通してあなたたちを創造されたのは、“全能者”に他ならないからです。
(マタイによる福音書 5:8、マルコによる福音書 9:7-8、10:27、ルカによる福音書 10:22、20:38、ヨハネによる福音書 1:14、14:9、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:29、コリントの信徒への手紙一 11:7、13:12、15:49、コリントの信徒への手紙二 3:1,18、4:6、ガラテヤの信徒への手紙 3:26-27、エフェソの信徒への手紙 4:24、コロサイの信徒への手紙 1:15-16、ヘブライ人への手紙 1:3、ヤコブの手紙 1:23、創世記 1:26-27、5:1、箴言 16:4、20:27、詩編 8:5、17:15、139:14、ヨハネの黙示録 21:3、22:4)
講話 8 – 104
気づき一人ひとりすべての魂の中に、神の独り子“キリスト”が、宿っておられるのです。ゆえに、あなたたちは、“キリスト”の体の中に生きており、“キリストの霊”は、あなたたち一人ひとりの内に生きておられるのです。
(マタイによる福音書 18:20、マルコによる福音書 4:20、13:11、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 1:14、14:20、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:9-10、コリントの信徒への手紙一 12:27、コリントの信徒への手紙二 13:5、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 3:16-17、4:4-6、コロサイの信徒への手紙 1:27、ヘブライ人への手紙 3:6、創世記 1:27、箴言 20:27、詩編 139:7、ヨハネの黙示録 3:20、21:3)
講話 8 – 105
気づきあなたたちは、“天の父”の似姿として生まれたのですから、その似姿は、あなたたちの内なる“キリスト”を通して、外なる世界に映し出されるのです。
(マタイによる福音書 5:16、マルコによる福音書 12:17、ルカによる福音書 6:36,45、ヨハネによる福音書 14:9、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:29、コリントの信徒への手紙一 11:7、15:49、コリントの信徒への手紙二 3:18、ガラテヤの信徒への手紙 4:19、エフェソの信徒への手紙 4:24、コロサイの信徒への手紙 3:10、ヘブライ人への手紙 1:3、ヤコブの手紙 1:23、創世記 1:26-27、箴言 4:18、20:27、詩編 17:15、139:14、ヨハネの黙示録 22:4)
講話 8 – 106
気づき外なるものとは、肉と血のことです。しかし、肉と血は、“天の王国”に入ることはできません。“天の王国”は、“霊”と水の領域であり、肉は何も関与できないからです。
(マタイによる福音書 16:17、26:41、マルコによる福音書 14:38、ルカによる福音書 3:16、24:39、ヨハネによる福音書 3:5-6、使徒言行録 2:17-18、ローマの信徒への手紙 8:8-9、コリントの信徒への手紙一 15:50、コリントの信徒への手紙二 5:1,16、ガラテヤの信徒への手紙 5:17、エフェソの信徒への手紙 2:18、ヘブライ人への手紙 10:22、ヨハネの手紙一 3:9、創世記 2:7、イザヤ書 44:3、エゼキエル書 36:26、箴言 20:27、詩編 51:12、143:10、ヨハネの黙示録 21:6,27)
講話 8 – 107
気づき“水”とは不可視の本質的実体(invisible substance)、すなわち“神のマインド”(the Mind of God)を意味しており、ありとあらゆるすべてが、その中に存在しています。この微細な本質的実体によって、肉や骨さえも含め、すべてのものが創造されているのです。形は消えても、“霊”は永遠に存続するのです。
(マタイによる福音書 24:35、マルコによる福音書 13:31、ルカによる福音書 8:24、21:33、ヨハネによる福音書 1:3、3:5-6、 4:14、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 8:11、コリントの信徒への手紙一 15:42-44、コリントの信徒への手紙二 4:18、ガラテヤの信徒への手紙 6:8、エフェソの信徒への手紙 2:10、3:9、ヘブライ人への手紙 11:3、創世記 1:1-2、イザヤ書 40:8、ヨブ記 33:4、箴言 3:19、8:22-23、詩編 33:6、104:30、139:13-16、ヨハネの黙示録 21:6、22:1)
講話 8 – 108
気づきしかし、魂は、“霊”の力によって引き上げられ、肉体のヴァイブレーションが及ばないところまで高められると、内なる領域へと移され、そこで、“わたし”と共に留まります。“わたし”(“I am”)は、内なるものと同時に、外なるものにも存在しますが、肉や血の影響は受けません。“わたし”は、“霊”の力によって、世に打ち勝ったのであり、肉はこのことについて、どんな発言権もないのです。
(マタイによる福音書 16:17、マルコによる福音書 14:38、ルカによる福音書 17:21、24:39、ヨハネによる福音書 3:6、14:16-17、16:33、使徒言行録 7:55、ローマの信徒への手紙 8:1-2,9、コリントの信徒への手紙一 15:50、コリントの信徒への手紙二 4:16-18、ガラテヤの信徒への手紙 5:16-17,22-23、エフェソの信徒への手紙 2:6、フィリピの信徒への手紙 3:20-21、創世記 5:24、イザヤ書 40:31、箴言 20:27、詩編 51:12、73:26、ヨハネの黙示録 3:21、21:3-4,7)
講話 8 – 109
気づき外なるものとは、肉と血のことですが、肉と血は、“天の王国”に入ることはできません。肉と血は、“キリスト”が地上に顕現するための、手段なのです。
(マタイによる福音書 16:17、マルコによる福音書 14:22,38、ルカによる福音書 22:19-20、24:39、ヨハネによる福音書 1:14、3:5-6、6:53-56、使徒言行録 2:31、ローマの信徒への手紙 8:3、コリントの信徒への手紙一 15:50、コリントの信徒への手紙二 4:10-11、ガラテヤの信徒への手紙 1:15-16、2:20、エフェソの信徒への手紙 2:15、ヘブライ人への手紙 2:14、創世記 2:7、イザヤ書 53:2、箴言 20:27、詩編 16:9-10、73:26、139:13-14、ヨハネの黙示録 1:13-15,18)
講話 8 – 110
気づき外なるものの中にある不義は、過ぎ去るのです。“愛”のハートから、赦しによる癒しが湧き上がってからです。
(マタイによる福音書 6:14-15、24:35、マルコによる福音書 3:28、11:25、ルカによる福音書 6:37、ヨハネによる福音書 8:11,32、使徒言行録 3:19、ローマの信徒への手紙 12:21、コリントの信徒への手紙一 13:8、コリントの信徒への手紙二 4:18、5:17、ガラテヤの信徒への手紙 5:22、エフェソの信徒への手紙 4:32、コロサイの信徒への手紙 3:13-14、創世記 50:20、イザヤ書 43:25、箴言 10:12、詩編 85:10、103:12、ヨハネの黙示録 21:4)