講話 2 – 41

気づき

“わたし”は“命”です。“わたし”を信じる者は、死ぬことはなく、たとえ死んでも生きるのです。なぜなら、“わたし”は、あなたたちの内なる“命”だからです。“わたし”を信じる者は、永遠の“命”を得ます。ゆえに、死はありえません。“わたし”が、あなたたちの内に、常に生きているからです。

(ヨハネによる福音書 3:16、11:25-26、 14:6,19、マタイによる福音書 19:16-17、マルコによる福音書 16:6-7、ルカによる福音書 5:31、ヨハネの手紙一 5:11-13、コロサイの信徒への手紙 3:4、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、イザヤ書 40:31、箴言 8:35、詩編 16:11、23:1-6、ヨハネの黙示録 21:6)

講話 2 – 42

気づき

万生万物、すべての内なる“霊”は、同一です。大海の一滴の雫(しずく)は、大海全体と同じ本質をもっています。 “わたし” は、至るところすべてに存在しているのです。

(ヨハネによる福音書 14:20、使徒言行録 17:28、エフェソの信徒への手紙 4:4-6、コリントの信徒への手紙一 12:4-11,13、ローマの信徒への手紙 8:9、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、イザヤ書 6:3、箴言 15:3、詩編 24:1、139:7-10、ヨハネの黙示録 21:6)

講話 2 – 43

気づき

悟りと“愛”によって、あなたたちは、すべての魂に宿る“キリスト”の中に入るのです。なぜなら、 「“わたし”」は、いつもそこに留まっているからです。

(マタイによる福音書 25:40、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 14:20-23、15:4-5、ローマの信徒への手紙 8:9-10、コリントの信徒への手紙一 3:16、コリントの信徒への手紙二 5:17、エフェソの信徒への手紙 3:17、コロサイ人への手紙 1:27、ガラテヤ人への手紙 2:20、3:28、エレミヤ書 31:33、イザヤ書 57:15、箴言 3:5、8:17、20:27、詩編 5:11、37:4、46:5、133:1、ヨハネの黙示録 2:7,10、3:20、21:3)

講話 2 – 44

気づき

あなたたちは、“わたし”が語った言葉を聴いています。
「“わたし”は、絶えず目の前に主を置く。主は、“わたし”の右におられ、“わたし”は揺らぐことがない」

(マタイによる福音書 28:20、ルカによる福音書 22:43、ヨハネによる福音書 14:16-17、ローマの信徒への手紙 8:31、コリントの信徒への手紙一 10:13、使徒言行録 2:25、ヘブライ人への手紙 12:2、13:5、出エジプト記 33:14、ヨシュア記 1:9、イザヤ書 41:10、箴言 3:5-6、詩編 16:8、23:4、ヨハネの黙示録 21:3)

講話 2 – 45

気づき

神と人は一つであるということを、あなたたちは、なんとゆっくりと学ぶのでしょうか。あなたたちは、自分の限度を捨て去ることを恐れているのです。まるで子供のように、自分のおもちゃ、壁、仕切り、教会、礼拝堂、シナゴーグ、モスクなどにしがみついているのです。ああ、あなたたちを皆、“わたし”の翼の下に集め、万生万物の内に宿る“唯一の命”を見せてあげることができないものだろうか!

(マタイによる福音書 6:24、ルカによる福音書 9:62、ヨハネによる福音書 10:30、17:21、ローマの信徒への手紙 8:15、使徒言行録 17:28、コリントの信徒への手紙一 3:16、12:4-11、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、出エジプト記 20:3-5、イザヤ書 55:8-9、56:7、箴言 3:5-6、詩編 46:10、139:7-10、ヨハネの黙示録 3:20、21:3)

講話 2 – 46

気づき

神はすべての“命”です。この“命”は、目に見えたり、見えなかったりしますが、完璧な“愛”です。しかし、このことを学ぶのに、あなたたちはなんと時間がかかるのだろうと、しばしば思うでしょう。それは、あなたたちが、“真理”を内からではなく、外から把握しようとするからなのです。

(マタイによる福音書 6:33、ルカの福音書 17:21、ヨハネによる福音書 4:24、14:6,20、ヨハネの手紙一 4:7-8、ローマの信徒への手紙 8:9-10、コリントの信徒への手紙一 2:10-11、エフェソの信徒への手紙 3:17、申命記 6:5、イザヤ書 55:8-9、箴言 3:5-6、詩編 46:10、139:7-10、ヨハネの黙示録 3:20、21:3)

講話 2 – 47

気づき

あなたたちは、失うのではないかと恐れているものに、いかにしがみつきたがるのでしょうか。生命を得ようとする者は、それを失い、生命を捧げようとする者は、それを得るのです。

(マタイによる福音書 10:39、16:24-25、マルコによる福音書 8:35、ルカによる福音書 9:24、17:33、ヨハネによる福音書 12:24-25、ローマの信徒への手紙 6:4、8:13、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、フィリピの信徒への手紙 1:21、3:7-8、テモテへの手紙一 6:6-10、出エジプト記 14:13-14、申命記 30:19-20、イザヤ書 40:31、箴言 3:5-6、詩編 23:4、46:1-3,10、118:8-9、ヨハネの黙示録 2:10)

講話 2 – 48

気づき

“わたし”は、“キリスト”から語っているのです。常に、そうしてきました。 “わたし”の言葉が、外なるものだけに生きている人びとにとって奇妙に思えたのは、そのためです。何百万もの人びとが、いまだに束縛されています。しかし、“わたし”の扉は、どんなときでも、すべての人に開け放たれており、誰でも入って来て、“わたし”と共に、食事をすることができるのです。

(マタイによる福音書 11:25,28-30、マルコによる福音書 2:17、8:34、10:14-15,45、ルカによる福音書 13:29、19:10、ヨハネによる福音書 6:35、10:9、14:6,26、ローマの信徒への手紙 8:1-2、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、5:1、コリントの信徒への手紙二 3:17、4:3-4、5:20、コロサイの信徒への手紙 3:11、ヨハネの手紙一 2:27、出エジプト記 3:7-8、エレミヤ書 29:13-14、イザヤ書 55:1、61:1、箴言 3:5-6、8:17、詩編 23:5、34:8、107:14、145:18、ヨハネの黙示録 3:20、22:17)

講話 2 – 49

気づき

サタンは、その道を塞(ふさ)ごうとします。サタンとは、偽りの我のことです。すべての人が克服しなければならない、肉体感覚という“悪魔”です。

(マタイによる福音書 4:1-11、16:23、マルコによる福音書 8:33、ルカによる福音書 22:31、ヨハネによる福音書 8:44、コリントの信徒への手紙一 10:13、コリント信徒への手紙二 10:4-5、11:14、ガラテヤの信徒への手紙 5:16-17、ヤコブの手紙 1:13-15、エフェソの信徒への手紙 6:10-18、ペトロの手紙一 5:8、ヨブ記 1:6-12、ゼカリヤ書 3:1-2、箴言 4:14-15,23、詩編 91:3-4、119:11,29、ヨハネの黙示録 12:9、20:10)

講話 2 – 50

気づき

死すべき感覚によるこの錯覚こそが、真の“霊的意識”の認識を妨げる、唯一の障害なのです。なぜなら、 “神の国”は、あなたたちの内にあるからです。“わたし”は“命”であり、2000年前と同じ“命”です。モーゼとエリヤは、わたしよりも先立って地上に現れていますが、すべての人びとの中に現れているのと同じ、“命”でした。「アブラハムの前に、“わたしはある”」

(マタイによる福音書 6:22-23、17:3、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 1:12-13、8:24,28,58、10:30,34、11:25、13:19、14:6、18:5-6、コロサイの信徒への手紙 1:17、コリントの信徒への手紙二 4:16、ローマの信徒への手紙 8:6、エフェソの信徒への手紙 1:4、出エジプト記 3:14、イザヤ書 41:4、44:6、箴言 3:5、4:23、詩編 46:10、82:6、90:2、103:19、145:13、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13-14,17)