講話 12 – 61

気づき

あなたたちの多くが、お互いに別々な、また“わたし”とも切り離された、独立した個人であり、他人の困難や苦しみは、自分の外にある、自分には関係のないものかのように、みなしてきたのです。

(コリントの信徒への手紙一 12:26-27、ローマの信徒への手紙 12:5、ヨハネによる福音書 15:5、マルコによる福音書 3:24-25、12:31、ルカによる福音書 6:36、10:29-37、エフェソ書 4:4、創世記 1:26-27、ミカ書 6:8、イザヤ書 58:6-7、エレミヤ書 22:16、ヨハネの黙示録 7:9、21:3-4)

講話 12 – 62

気づき

“わたし”は、あなたたちの重荷をすべて、背負うことができるのです。なぜなら、“わたしの父”が、“わたし”を、世話して下さることを知っているからです。もしあなたたちが、疲れているならば、“わたしの父”は、“わたし”同様に、あなたたちの面倒もみて下さるのです。

(マタイによる福音書 11:28-30、ペテロの手紙一 5:7、ヨハネによる福音書 10:28、マルコによる福音書 6:50、10:27、ルカによる福音書 12:22-24,32、フィリピの信徒への手紙 4:6-7、詩編 23:1-4、55:22、箴言 3:5-6、12:25、16:3、18:10、30:5、イザヤ書 41:10、ヨハネの黙示録 7:16-17、21:4)

講話 12 – 63

気づき

“わたし”には、どんな状況にも打ち勝つ力を授けてくださる、“父”がいます。この“力”は、あなたたちにも備わっているのです。ゆえに、自分たちや、“わたし”と他の人びとを分け隔てることはやめ、人類全体と共に、“わたし”と一つになって、感じなさい。“わたし”と共感することによって、“わたし”を知ることができます。他の人びとのために行うことは、“わたし”に行うことなのです。

(マタイによる福音書 25:40、ヨハネによる福音書 15:5、マルコによる福音書 9:41、12:31、ルカによる福音書 6:31、10:27、コリントの信徒への手紙一 12:12-14,27、ミカ書 6:8、ゼカリヤ書 7:9-10、レビ記 19:18、イザヤ書 58:6-7、ヨハネの黙示録 3:21、7:9)

講話 12 – 64

気づき

ゆえに、あなたたちは、“わたし”を知り、“わたしの父”は、あなたたちの“父”でもあることを知ったからには、“神の愛”のために物事を行うことで、決して疲れることはないのです。

(ヨハネによる福音書 15:9、ガラテヤの信徒への手紙 6:9、コリントの信徒への手紙一 15:58、ローマの信徒への手紙 5:5、コリントの信徒への手紙二 5:14、マタイによる福音書 6:33、マルコによる福音書 10:29-30、12:30、ルカによる福音書 6:35、11:9-10、イザヤ書 40:31、申命記 6:5、詩編 27:14、ネヘミヤ記 8:10、ヨハネの黙示録 2:3、3:10)

講話 12 – 65

気づき

行った仕事の大きさではなく、その仕事を成し遂げた“愛”こそが、最も大切なものなのです。

(コリントの信徒への手紙一 13:1-3、ヨハネによる福音書 15:12、マタイによる福音書 25:40、マルコによる福音書 10:21、12:33、ルカによる福音書 6:35、10:27、ガラテヤの信徒への手紙 5:6、ヨハネの手紙一 4:7、ミカ書 6:8、箴言 21:3、ホセア書 6:6、ヨハネの黙示録 2:19、3:8)

講話 12 – 66

気づき

多くの人びとは、自分の業績を誇り、「わたしはこれを建てた、あれを建てた。これを造った、あれを造った」と言うでしょう。しかし、神を離れ、何かを創造できる者はいません。それを行う力を与えたのは、神だからです。神の外には何もなく、本質的に、神は“無限”だからです。

(ヨハネによる福音書 15:5、マルコによる福音書 10:27、13:31、ルカによる福音書 12:16-21、18:27、コリントの信徒への手紙一 3:7、15:10、使徒言行録 17:28、フィリピの信徒への手紙 4:13、創世記 1:27、箴言 16:9、19:21、21:30-31、コヘレトの言葉 2:24-26、3:11、9:11、詩編 121:1-2、127:1、イザヤ書 45:9、ダニエル書 4:30-32、ヨハネの黙示録 3:7-8、4:11)

講話 12 – 67

気づき

ゆえに、“力の源”は“愛”であり、それは、内なる“キリスト”を通してもたらされるものであることを悟り、成された仕事ではなく、それを行わせた“愛”を重視しなさい。すべての物事は過ぎ去りますが、“愛”は永遠に残るのです。

(コリントの信徒への手紙一 13:1-3, 13、ヨハネによる福音書 15:12-13、ヨハネの手紙一 4:8、ガラテヤの信徒への手紙 5:6、マタイによる福音書 22:37-39、マルコによる福音書 12:30-31、ルカによる福音書 6:35、10:27、申命記 6:5、箴言 10:12、ソロモンの雅歌 8:7、イザヤ書 54:10、ヨハネの黙示録 2:4-5、21:6)

講話 12 – 68

気づき

あなたたちの心は、あなたたちの魂の鏡であり、苦しみの中にあっても、常に、“父の臨在”の中にいることを知り、強くなっていくのです。

(ローマの信徒への手紙 5:3-5、8:28、ヤコブの手紙 1:2-4、ペテロの手紙一 1:6-7、コリントの信徒への手紙二 12:9-10、ヨハネによる福音書 16:33、マルコによる福音書 8:34-35、13:13、ルカによる福音書 6:22-23、21:19、3:21、箴言 3:11-12、4:23、17:3、24:10、28:14、詩編 34:18-19、イザヤ書 41:10、ヨブ記 23:10、ヨハネの黙示録 2:10、3:21)

講話 12 – 69

気づき

あなたたちの心の内奥と、あなたたちの想像力は、密接に関係しています。あなたたちの心の内奥にあるものは、あなたたちの想像力によって映し出されているのです。

(ルカによる福音書 6:45、12:34、マタイによる福音書 9:4、12:34、マルコによる福音書 4:24-25、7:20-23、フィリピの信徒への手紙 4:8、ローマの信徒への手紙 12:2、箴言 4:23、23:7、詩編 139:23-24、ヨハネの黙示録 2:23、3:20)

講話 12 – 70

気づき

“わたし”が語っている、これらの講話は、あなたたちの心を、すべての“命の源”へと近づけているのです。

(ヨハネによる福音書 6:63、14:6、15:3、マルコによる福音書 1:15、ルカによる福音書 8:10-18、ヘブライ人への手紙 4:12、ローマの信徒への手紙 10:17、詩編 119:105、申命記 6:5、8:3、箴言 3:1-2、4:20-23、ヨハネの黙示録 3:20、21:6、22:17)

(編集者補足)
ここでも、『ディヴァイン・ヒーリング』という書物(講話)の特長が端的に示されています。“わたし”、すなわちイエス・キリストの本体、あえて言うならば、“真我”、“キリスト”、“神我”の語っている“言葉”、すなわち“命”、“命の源”は、すべての人の心(想念・ハート・意識)をこの本源である神へと導くものであるということでしょう。この12-70の関連聖句を聖書からいくつか選び、確認してみましょう。結局、『ディヴァイン・ヒーリング』と聖書が教えている本質は、なんら変わるものではないということがわかります。しかし、『 ディヴァインヒーリング 』のみ、あるいは聖書のみを読んでいても、そのことには気づかないと思われます。しかし、伝統的なキリスト教、キリスト教の教義、教会は、このような『ディヴァイン・ヒーリング』、また、聖書の解釈を異端とするでしょう。

命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネによる福音書 6:63)

イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14:6)

私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。(ヨハネによる福音書15:3)

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。(マルコによる福音書 1:15)

イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである。」「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」「灯をともして、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない。だから、どう聞くかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカによる福音書 8:10-18)

神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。(ヘブライ人への手紙 4:12)

それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。(ローマの信徒への手紙 10:17)

あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光。(詩編 119:105)

心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記 6:5)

そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。(申命記 8:3)

子よ、私の教えを忘れず、私の戒めを心に保て。(箴言 3:1-2)

子よ、私の言葉に思いを向けよ。私の語りかけに耳を傾けよ。(箴言4:20-23)

見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録 3:20)

「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から無料で水を与えよう。」(ヨハネの黙示録 21:6)

霊と花嫁が共に言う。「来りませ。」これを聞く者も言うがよい。「来りませ。」渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(ヨハネの黙示録 22:17)