講話 7 – 11
気づき書物も言葉も文字も、それ自体には何の価値もないのです。“霊”がそれらを用い、思考を不可視の世界へと繋ぎ、感覚の領域を突き破る手段とするときにのみ、価値を持つのです。
(マタイによる福音書 13:13、22:29、マルコによる福音書 4:24、ルカによる福音書 8:10、ヨハネによる福音書 6:63、14:26、使徒言行録 1:8、2:4、10:44、ローマの信徒への手紙 2:29、10:8-10,17、コリントの信徒への手紙一 2:4-5,10-14、コリントの信徒への手紙二 3:6、ガラテヤの信徒への手紙 3:2、エフェソの信徒への手紙 6:17、コロサイの信徒への手紙 2:8、テモテへの手紙二 3:16、ヘブライ人への手紙 1:1-2、4:12、ペトロの手紙一 1:20-21、イザヤ書 55:11、エレミヤ書 23:29、箴言 3:5-6、18:21、20:27、詩編 119:105,130、ヨハネの黙示録 2:7、19:13)
講話 7 – 12
気づきこのように、“言葉”とは、内部にある高価な真珠(である本質)を包み隠している、外側の殻に過ぎません。たとえば、「“わたし”はある」「“わたし”は“命”である」と、自分の想いの中にある言葉を発するとき、それらは、肉体感覚を通して表現されますが、それらの言葉は、永遠にして常在である霊的な状態に、蘇ることができるのです。
(マタイによる福音書 13:45-46、24:35、マルコによる福音書 4:33-34、ルカによる福音書 17:21、ヨハネによる福音書 1:1,4、6:63、8:58、14:6、17:17、使徒言行録 17:28、ローマの信徒への手紙 10:8,17、コリントの信徒への手紙一 2:13、コリントの信徒への手紙二 3:6、4:7、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、エフェソの信徒への手紙 3:17、4:23、フィリピの信徒への手紙 2:5-6、4:13、コロサイの信徒への手紙 1:15-17、3:4、ヘブライ人への手紙 4:12、出エジプト記 3:14、イザヤ書 55:11、エゼキエル書 37:4-5、 箴言 20:27、25:2、詩編 46:11、119:105,130、ヨハネの黙示録 1:8、2:17)
講話 7 – 13
気づきあなたたちが、“聖なる書”とする『聖書』を読むとき、あなたたちは『聖書』にある言葉を用い、それらの言葉を、霊的に高めることができるのです。肉眼で見、五官の想念によって読んでいるにもかかわらず、本来、あなたたちに内在している“霊”の“力”によって、それらの言葉を、肉体感覚の理解を超えた、霊的な次元へと、高めることができるのです。
(マタイによる福音書 13:13-15,23、24:35、マルコによる福音書 4:24-25、ルカによる福音書 24:45、ヨハネによる福音書 1:1、6:63、14:6,26、16:12-13、使徒言行録 8:30-31、28:27、ローマの信徒への手紙 8:5-6、10:17、12:2、コリントの信徒への手紙一 2:10-14、コリントの信徒への手紙二 3:6、ガラテヤの信徒への手紙 5:25、エフェソの信徒への手紙 1:17-18、コロサイの信徒への手紙 3:2、テモテへの手紙二 3:16-17、ヘブライ人への手紙 4:12、イザヤ書 55:8-11、エゼキエル書 36:26-27、箴言 2:3-6、3:5-6、詩編 119:18,105,130、ヨハネの黙示録 1:3、3:22、10:10)
講話 7 – 14
気づき『聖書』は、“命の法則”と、その“法則の正しい用い方”を教えるために、“霊”の導きによるインスピレーションによって書かれてきたものなのです。
(マタイによる福音書 5:17-18、22:37-40、マルコによる福音書 12:30-31、ルカによる福音書 4:4、10:26-28、ヨハネによる福音書 6:63、14:26、17:17、使徒言行録 1:8,16、ローマの信徒への手紙 7:12、10:17、15:4、コリントの信徒への手紙一 2:13、コリントの信徒への手紙二 3:6、ガラテヤの信徒への手紙 5:14,22-23、エフェソの信徒への手紙 6:17、テモテへの手紙二 3:16-17、 ヘブライ人への手紙 1:1-2、4:12、8:10、ペトロの手紙二 1:20-21、申命記 6:6-7、8:3、イザヤ書 48:17、59:21、エレミヤ書 31:33、エゼキエル書 36:27、箴言 4:20-22、6:23、詩編 19:7-9、40:8、119:105、ヨハネの黙示録 19:13、22:14)
講話 7 – 15
気づきゆえに、“わたし”は、律法を滅ぼすためではなく、律法を成就するためにやって来たのです。“命”を豊かに満たし、“命”が、人の肉体において現れることを示すためです。“キリスト”が、“子”の中に生き、“子”を通して“ご自身”を現す“無限なる父”の栄光を、肉体に現すことができることを証明するために、“わたし”は来たのです。
(マタイによる福音書 5:17-18、マルコによる福音書 10:45、ルカによる福音書 24:44、ヨハネによる福音書 1:14、10:10,30、14:6,9-11、使徒言行録 3:18、ローマの信徒への手紙 8:1-4、コリントの信徒への手紙一 15:45-47、コリントの信徒への手紙二 4:6、ガラテヤの信徒への手紙 4:4-5、エフェソの信徒への手紙 1:9-10、フィリピの信徒への手紙 2:7-11、コロサイの信徒への手紙 1:15-20、2:9、ヘブライ人への手紙 1:3、10:5-7、ヨハネの手紙一 4:2、イザヤ書 7:14、42:21、ミカ書 5:2、箴言 8:22-31、詩編 40:7-9、ヨハネの黙示録 19:13、21:3)
講話 7 – 16
気づき“ご自身”の内に“命”をもち給う“父”は、その同じ“命”を、“子”を通して現されたのです。ゆえに、“子”は、“父”の“命”と、“ご意志”を現すのです。
(マタイによる福音書 11:27、マルコによる福音書 9:37、ルカによる福音書 10:22、ヨハネによる福音書 1:1-4、5:19,26、6:38、10:30、14:6,9-10,24、17:8、使徒言行録 3:13、17:28、ローマの信徒への手紙 8:29、コリントの信徒への手紙一 15:45、エフェソの信徒への手紙 1:9-10、フィリピの信徒への手紙 2:6-7、コロサイの信徒への手紙 1:15-17、ヘブライ人への手紙 1:1-3、ヨハネの手紙一 4:9、イザヤ書 42:1、53:10、箴言 8:22-30,35、詩編 36:9-10、133:3、ヨハネの黙示録 1:18、3:14、22:1)
講話 7 – 17
気づき“わたしの言葉”は、“命”に溢れ、強力です。しかし、蜜よりも甘いのです。
(マタイによる福音書 4:4、24:35、マルコによる福音書 13:31、ヨハネによる福音書 1:1、6:63、使徒言行録 6:10、ローマの信徒への手紙 10:17、コリントの信徒への手紙一 1:18、エフェソの信徒への手紙 6:17、ヘブライ人への手紙 4:12、サムエル記上 14:27、イザヤ書 55:11、エゼキエル書 3:3、雅歌 4:11、箴言 5:3、16:24、24:13-14、詩編 12:6、18:30、19:10-11、119:103,130、ヨハネ黙示録 1:16、10:9-10)
講話 7 – 18
気づき“父”が、“わたし”に与えてくださる“言葉”は、世の人の理解を絶した「“父の愛”の生ける“言葉”」です。“父の言葉”は、生きている“力”です。 “父の愛”は、常に、ここに臨在しているからです。
(マタイによる福音書 24:35、マルコによる福音書 4:14-15、ルカによる福音書 8:11、ヨハネによる福音書 1:1-4,14、3:16、6:63、14:6、15:7-9、17:8、使徒言行録 10:44、ローマの信徒への手紙 5:5,8、8:38-39、11:33、ヨハネの手紙一 4:8、コリントの信徒への手紙一 2:9-10、13:4-8,12、エフェソの信徒への手紙 3:18-19、ヘブライ人への手紙 4:12、ペトロの手紙一 1:23、イザヤ書 55:11、箴言 4:20-22、8:22-31、詩編 19:9-11、33:6、119:140、147:5、ヨハネの黙示録 19:13、22:1)
講話 7 – 19
気づきあなたたちの誰であれ、“霊の力”を感じ、それを完全に認識し、それによって語るとき、その言葉には力があるのです。“天”においても“地”においても、すべての“力”が、“わたし”に与えられているのです。
(マタイによる福音書 28:18、マルコによる福音書 13:11、ルカによる福音書 4:32、21:15、ヨハネによる福音書 3:34、7:38-39、14:10-14,26、使徒言行録 1:8、ローマの信徒への手紙 10:8-10、15:13、ヘブライ人への手紙 4:12、コリントの信徒への手紙一 2:4-5、12:4-11、コリントの信徒への手紙二 3:5-6,17-18、4:7、ガラテヤの信徒への手紙 5:22-25、エフェソの信徒への手紙 3:16-17、6:17、テモテへの手紙二 1:7、ヘブライ人への手紙 4:12、出エジプト記 4:12、サムエル記上 10:6-10、エゼキエル書 3:1-4、イザヤ書 55:11、59:21、箴言 18:21、詩編 29:4、33:9、62:11、107:20、ヨハネの黙示録 1:8、12:11、19:15)
講話 7 – 20
気づき“父の光”から隠れている被造物は、存在しません。すべての存在が、“父”の目には裸であり、さらけ出されているのです。
(マタイによる福音書 10:26、マルコによる福音書 4:22、ルカによる福音書 12:2、ヨハネによる福音書 1:3-5、使徒言行録 17:27-28、ローマの信徒への手紙 2:16、コリントの信徒への手紙一 4:5、10:12、エフェソの信徒への手紙 5:13、コロサイの信徒への手紙 1:16-17、ヘブライ人への手紙 4:13、ヤコブの手紙 1:17、ヨハネの手紙一 1:5、イザヤ書 29:15、エレミヤ書 23:24、ダニエル書 2:22、アモス書 9:2-3、ヨブ記 34:21-22、箴言 15:3、詩編 33:13-15、90:8、139:1-5,7-12、ヨハネの黙示録 1:14、20:12、 22:5)