講話 12 – 21
気づき人の想いが、あらゆる物事を見分ける水準にまで到達し、自己の内奥の、最高の境地に達したとき、自己と万物を隔てていたすべてのベールは貫通され、“キリスト”の完璧な悟りに至ります。そのとき“わたし”は尋ねます――「今、知っているものは何ですか」と。すると、「“キリスト”だけを知っています。“キリスト”だけが、すべてのすべてです」と、答えるでしょう。
(コロサイの信徒への手紙 3:11、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、フィリピの信徒への手紙 3:8、ヨハネによる福音書 14:6,20、マルコによる福音書 12:29-30、ルカによる福音書 10:22、24:45、コリントの信徒への手紙一 13:12、コリントの信徒への手紙二 3:18、エフェソの信徒への手紙 2:18、4:13、詩編 73:25、イザヤ書 6:5、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13)
講話 12 – 22
気づき人の想いが、“キリスト力”を現すための媒体となったとき、それは“叡智”の塊となります。全ての物事に対して、“叡智”に満ちた理解が現れます。それによって、すべてが新たに創造されます。この“力”によって、全てのものが新たに創造されるのです。
(コロサイの信徒への手紙 1:16-17、ヨハネによる福音書 1:3、マルコによる福音書 11:23-24、ルカによる福音書 1:37、5:37-38、創世記 1:1-3,27、エフェソの信徒への手紙 2:10、4:23-24、コリントの信徒への手紙二 5:17、イザヤ書 43:19、ヨハネの黙示録 3:8、21:5、22:1)
講話 12 – 23
気づきこれが、あなたたち自身の内に植え込まれている“力”であり、あなたたちの想念が、限定された信念や信仰、考えから解放されたときに現れるのです。真の“智性”(True Intelligence)は、想念が分離を知らなくなったときに、働き始めるのです。
これが本当にわかったとき、自分が作り出した牢獄から解放されるのです。
(ローマの信徒への手紙 8:2、12:2、ガラテヤの信徒への手紙 5:1、ヨハネによる福音書 8:32、15:5、マルコによる福音書 7:21-23、ルカによる福音書 4:18、5:36-38、コリントの信徒への手紙一 2:16、コリントの信徒への手紙二 3:17、イザヤ書 61:1、詩編 51:10、ヨハネの黙示録 3:20、21:6、22:17)
講話 12 – 24
気づきこれが、 あなたたちを“全知” から引き離している、ベールを取り去った結果なのです。
(ローマの信徒への手紙 8:2、12:2、ガラテヤの信徒への手紙 5:1、ヨハネによる福音書 8:32、15:5、マルコによる福音書 7:21-23、ルカによる福音書 4:18、5:36-38、コリントの信徒への手紙一 2:16、コリントの信徒への手紙二 3:17、イザヤ書 61:1、詩編 51:10、ヨハネの黙示録 3:20、21:6、22:17)
講話 12 – 25
気づきベールを突き破ることは、決して難しいことではありません。あなたたちの想いから、すべての制約、すべての信念や信仰、あらゆる理論を排除するだけでいいのです。それが達成されれば、あなたたちは、“わたし”に目を向けることができます。そして、“わたし”は、あなたたちを通じて語ります。
(ヨハネによる福音書 14:23、15:5、ヘブライ人への手紙 12:1-2、コリントの信徒への手紙一 2:14、エフェソの信徒への手紙 3:17、フィリピの信徒への手紙 4:13、ルカによる福音書 11:9-10、マルコによる福音書 11:24、詩編 139:7-8、イザヤ書 6:3、ヨハネの黙示録 3:20)
講話 12 – 26
気づき内なる領域から人類を見ると、あなたたちが抱いている信念や信仰、また観念によって、いかに多くの力が閉じ込められているかが、よくわかります。
(ローマ人への手紙 12:2、マタイによる福音書 6:21、マルコによる福音書 7:20-23、ルカによる福音書 6:45、コリントの信徒への手紙二 10:5、ガラテヤの信徒への手紙 5:1、エフェソの信徒への手紙 4:22-23、箴言 23:7、イザヤ書 55:8-9、黙示録 3:17)
講話 12 – 27
気づきあなたたちの大きな妨げの一つは、祈りの時間は、他の時間とは異なるべきだという、妄想を抱いていることです。
(ヨハネによる福音書 15:4-5、マタイによる福音書 6:6、マルコによる福音書 1:35、11:24、ルカによる福音書 11:9-10、18:1、テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18、エフェソの信徒への手紙 6:18、コロサイの信徒への手紙 4:2、ヨブ記 1:5、ネヘミヤ記 1:4、ダニエル書 6:10、詩編 1:2、55:17、130: 6、イザヤ書 26:9、ヨハネの黙示録 5:8)
講話 12 – 28
気づき祈りとは、“神の臨在”を感じることです。これはどのような状況であっても、“意識的な現実”でなければなりません。
(ヨハネによる福音書 15:4-5、テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18、マタイによる福音書 28:20、マルコによる福音書 11:24、ルカによる福音書 18:1、24:32、コロサイの信徒への手紙 3:16、申命記 31:6、エレミヤ書 29:13、詩編 16: 8、139:7-10、イザヤ書 41:10、ヨハネの黙示録 3:20、21:3)
講話 12 – 29
気づきあなたたちは、週に一日を、祈りのために予約しています。週に一日を祈りに充てているので、週ごとの瞑想として、満足しているのです。
(マタイによる福音書 6:6、23:23、マルコによる福音書 2:27、ルカによる福音書 4:16、18:1,10-14、ヤコブの手紙 1:22、テサロニケの信徒への手紙一 5:17、エフェソの信徒への手紙 6:18、ヘブライ人への手紙 4:9-10、出エジプト記 20:8-10、イザヤ書 1:13-14、58:13-14、アモス書 5:21-23、ミカ書 6:6-8、詩編 92:1-2、130:6、ヨハネの黙示録 2:4-5、3:1-2,15-16)
講話 12 – 30
気づきそれは正しいやり方ではありません。正しいやり方は、あなたたちの中で、“父”が働かれていることを、いつどんなときでも自覚し続けることです。そうしていれば、分離や分割はどこにもなく、時間も空間も存在しないことがわかります。
(ヨハネによる福音書 14:20、15章5、マルコによる福音書 13:11、ルカによる福音書 12:12、17:21、ガラテヤ人への手紙 2:20、コリントの信徒への手紙一 3:16、コロサイの信徒への手紙 3:3、エフェソの信徒への手紙 2:18、詩編 139:7-10、イザヤ書 40:28、43:1-2、エレミヤ書 23:23-24、ヨハネの黙示録 21:3、22:5)