講話 11 – 81

気づき

人類の身体は、“神の霊”の美しい衣となります。救いは一部のものではなく、人類全体のものであることを告げるために、“わたし”は、あなたたちのもとに再びやって来ます。そのために、“わたし”はあなたたちの中で働いているのです。

(エフェソの信徒への手紙 2:10、5:27、コリントの信徒への手紙一 15:51-52、コリントの信徒への手紙二 3:18、マルコによる福音書 13:26-27、ルカによる福音書 2:30-32、3:6、ヨハネによる福音書 14:23、17:21-23、フィリピの信徒への手紙 4:8、イザヤ書 61:10、エゼキエル書 37:23、ハバクク書 2:14、ヨハネの黙示録 7:9-10、21:1-4、22:12)

講話 11 – 82

気づき

空には新たなエルサレムの到来を告げる徴(しるし)が現れています。

(ヨハネの黙示録 21:1-4、22:1-5,12,16、マタイによる福音書 24:30、マルコによる福音書 13:26-27、ルカによる福音書 21:25-28、イザヤ書 65:17-25、エゼキエル書 37:1-14、48:35、ダニエル書 7:13-14、ヨエル書 2:28-31)

講話 11 – 83

気づき

“天”の動きのすべては、“絶対者”の思考の現れです。あなたたちも、“絶対者”の思考の現れなのです。ゆえに、あなたたちは、“絶対者の愛と癒やし”を現さなければならないのです。

(コロサイの信徒への手紙 1:16-17、エフェソの信徒への手紙 2:10、ヨハネの手紙一 4:8、ルカによる福音書 6:35-36、10:27、マルコによる福音書 12:30-31、ヨハネによる福音書 1:1-3、15:12、詩編 19:1、139:1-24、イザヤ書 55:10-11、創世記 1:26-27、ヨハネの黙示録 21:1-3、22:1-2,12-13)

講話 11 – 84

気づき

おそらくあなたたちは、“考える”ということの真の意味を、誤解してきたのです。

(ローマの信徒への手紙 12:2、フィリピの信徒への手紙 4:8、エフェソの信徒への手紙 4:23-24、コリントの信徒への手紙二 10:5、コロサイの信徒への手紙 3:2、マタイによる福音書 6:21、マルコによる福音書 7:20-23、ルカによる福音書 6:45、12:34、箴言 23:7、4:23、イザヤ書26:3、55:8-9、詩編 139:17-18,23-24、ヨハネの黙示録 2:23、3:20、19:13、21:5、22:12)

講話 11 – 85

気づき

“考える”とは、知的な概念を抱くことや、何かをイメージすることではありません。とはいえ、それらは、想いを通じて、それぞれの進路を見出すものです。

(ローマの信徒への手紙 12:2、フィリピの信徒への手紙 4:8、エフェソの信徒への手紙 4:23-24、コリントの信徒への手紙二 10:5、コロサイの信徒への手紙 3:2、マタイによる福音書 6:21、マルコによる福音書 7:20-23、ルカによる福音書 6:45、12:34、箴言 23:7、4:23、イザヤ書 26:3、55:8-9、詩編 139:17-18,23-24、ヨハネの黙示録 2:23、3:20、19:13、21:5、22:12)

講話 11 – 86

気づき

“考える”とは、考える者の直接的な表現であり、考える者から決して切り離されることはありません。“考える”ということは、すべての形体や表現の背後に働いている、創造プロセスなのです。

(ヨハネによる福音書 1:1-3、マルコによる福音書 4:26-29、ルカによる福音書 6:45、8:11、コロサイの信徒への手紙 1:16-17、コリントの信徒への手紙二 10:5、エフェソの信徒への手紙 2:10、ヘブライ人への手紙 11:3、ローマの信徒への手紙 12:2、創世記 1:1-3、詩編 33:6、139:23-24、箴言 23:7、ヨハネの黙示録 2:23、3:20、19:13、21:5、22:12)

講話 11 – 87

気づき

心の中に、何らかの概念があるとき、あなたたちは、その概念に囚われているのです。それは、自己の外にある何かを見ていることになります。“実在”は思考の背後にあるのです。真の思考とは、外的なものに影響されない思考です。これが、思考者の真の表現です。“わたし”の癒やしの思いは、あなたたちに向かい、その使命を果たします。

(コリントの信徒への手紙二 10:5、ローマの信徒への手紙 12:2、フィリピの信徒への手紙 4:8、マタイによる福音書 6:21、マルコによる福音書 7:20-23、ルカによる福音書 6:45、11:39-40、ヨハネによる福音書14:23、箴言 3:5-6、詩編 46:10、139:23-24、イザヤ書 26:3、ヨハネの黙示録 2:23、3:20、19:13、21:5、22:12)

講話 11 – 88

気づき

自然界に存在する、無数の形態を持つ万生万物の世界は、無限者によって、無限者の中に、表現された思考なのです。

(コロサイの信徒への手紙 1:16-17、ヨハネによる福音書 1:1-3、マルコによる福音書 13:31、ルカによる福音書 21:33、12:27、ヘブライ人への手紙 11:3、ローマの信徒への手紙 11:36、創世記 1:1-3、詩編 33:6、139:13-14、イザヤ書 40:26、ヨハネの黙示録 4:11、10:6、 21:5)

講話 11 – 89

気づき

外側からはどのように見えようとも、神のすべての創造の背後に働いている“力”は、“愛”なのです。すべての被造物に注ぎ込まれている神の本性は、すべてが存在する“愛の中心の源”へと向かっているのです。

(ヨハネの手紙一 4:8、ローマの信徒への手紙 8:38-39、コリントの信徒への手紙一 13:1-13、ヨハネによる福音書 3:16、マルコによる福音書 12:30-31、ルカによる福音書 10:27、12:6-7、エフェソの信徒への手紙 2:4-5、詩編 136:1-9、139:7-10、イザヤ書 54:10、エレミヤ書 31:3、ヨハネの黙示録 4:11、21:6、22:17)

講話 11 – 90

気づき

“大自然”の全貌を理解するとき、 “神の霊”の現れが見えてきます。―― 鉱物、植物、動物、そして人間、これらのすべてに、 “神の霊”が顕現しています。“キリスト意識”とは、“霊”がすべてのすべてであるという認識であり、人の内なる“神の意識”が、自己を自覚することです。“わたし”は神の子であり、地上の何人も“わたしの父”ではなく、“天”におられる父こそが、“わたしの父”なのです。

(ヨハネによる福音書 1:3-4,14、10:30、マルコによる福音書 8:36、12:29-30、ルカによる福音書 10:22、17:21、ローマの信徒への手紙 8:16、コロサイ人への手紙 1:15-17、創世記 1:26-27、詩編 8:4-5、イザヤ書 43:1、ヨハネの黙示録 21:6、22:13-14,17)