講話 11 – 121

気づき

目の前の形あるものに、“命”を限定してはいけません。“命”は目には見えませんが、“実在”(実体、本質)であり、遍在しています。形あるものは“命”の表現であり、目の前の形あるものは、不可視の“命”全体の現れに過ぎません。“全体”は、決して分割はされていないからです。

(ヨハネによる福音書 1:1-4、マルコによる福音書 4:26-29、ルカによる福音書 12:23、17:21、コロサイの信徒への手紙 1:16-17、ヘブライ人への手紙 11:3、コリントの信徒への手紙二 3:17、4:18、創世記 1:27、2:7、詩編 104:24、139:7-8、ヨハネの黙示録 4:11、21:6、22:1)

講話 11 – 122

気づき

いつの日かあなたたちは、これらのことについて、もっと多くのことを知るようになります。今見ている世界とは異なる、目に見えない世界を目にすることになります。そうです、今あなたたちが認識しているよりも、偉大な生命の形態が存在するのです。今は見ることのできない神の天使たちさえも、見ることができるようになるでしょう。しかし、それらを超えて“永遠の命”があるのです。

(コリントの信徒への手紙一 13:12、ヘブライ人への手紙 11:1、マルコによる福音書 13:26、ルカによる福音書 21:27、イザヤ書 40:5、65:17、詩編 34:7、エゼキエル書 43:2、 ヨハネの黙示録 1:7、21:3-4)

講話 11 – 123

気づき

“命”は形あるものを超越しています。見えている形あるものによって、“命”を制限してはなりません。形あるものは、“命”の表現なのです。心による推論によって、“命”を制限してはなりません。そうすることによって、心を超越した“全体なるもの”への道を、閉ざさないでください。

(ヨハネによる福音書 1:1-3、マルコによる福音書 10:15、ルカによる福音書 10:21、18:17、ローマの信徒への手紙 12:2、コリントの信徒への手紙一 2:9,14、フィリピの信徒への手紙 4:7、エフェソの信徒への手紙 3:19、箴言 3:5-6、イザヤ書 55:8-9、詩編 139:6、 ヨハネの黙示録 3:20、21:5、22:17)

講話 11 – 124

気づき

“真理”は、“真理”の一部分ではありません。“真理”の全体は、見ることも、聞くこともできません。あなたたちの成長は、高い次元においても、さらに続いていくのです。

(コリントの信徒への手紙一 13:9-12、ヨハネによる福音書 16:12-13、マルコによる福音書 4:11-12、ルカによる福音書 8:10、10:21、コロサイの信徒への手紙 1:26、ヘブライ人への手紙 11:3、イザヤ書 55:8-9、詩編 139:6、ヨハネの黙示録 5:3-5、21:23)

講話 11 – 125

気づき

唯一なる“真理”があります。“わたし”は、その“真理”ですが、誰も“真理”の全てを理解することはできません。“わたし”は、全人類の中にいます。“わたし”の中にあって、あなたたちは一なるものとして、全てに存在し、全ての中に、一なるものとして存在しています。これは、“真理”の全体を絶え間なく広げ、“愛”である“父”の完全無欠に至るものです。“神の霊”は、あなたたちの中で、“神のキリスト”として、人格化し、現れているのです。

(ヨハネによる福音書 14:6、17:21-23、マルコによる福音書 12:29-31、ルカによる福音書 10:22、17:21、コロサイの信徒への手紙 1:27、エフェソの信徒への手紙 4:4-6、ガラテヤの信徒への手紙 3:28、ローマの信徒への手紙 8:10、コリントの信徒への手紙二 3:17、詩編 139:7-8、イザヤ書 45:5、ヨハネの黙示録 21:3、22:13)