講話 11 – 91

気づき

すべての小川が海へと流れて行くように、形あるものはすべて、その起源である“愛”という人智を超えた海に向かい、動いて行くのです。

(ローマの信徒への手紙 11:36、コリントの信徒への手紙一 8:6、13:1-13、ヨハネによる福音書 1:3、15:5、マルコによる福音書 4:26-29、12:29-30、ルカによる福音書 15:4-7,11-24、コヘレトの言葉 1:7、詩編 24:1、42:1、イザヤ書 40:5、黙示録 21:6、22:1-2)

講話 11 – 92

気づき

“普遍なるもの”と“個なるもの”は一つです。個人がこれを認識するとき、成長の源泉である無限の“命”は個の中にあり、この無限の“命”が、個を進化させていることに気づきます。そして、これに気づくや否や、あなたたち自身の、霊的な進化が始まるのです。

(ヨハネによる福音書 14:6、17:21、マルコによる福音書 10:27、12:30、ルカによる福音書 10:27、17:21、コリントの信徒への手紙一 6:19-20、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、コロサイの信徒への手紙 3:3、エフェソの信徒への手紙 2:18、創世記 1:27、詩編 8:1-10、139:13-14、イザヤ書 43:1、エレミヤ書 29:11、ヨハネの黙示録 3:20、21:6)

講話 11 – 93

気づき

“キリスト”は、神の中に完成された人間であり、人間の中の神です。“キリスト”は完成された存在です。神のすべての強大な力は、“キリスト”を通して表現されるのであり、“天”においても“地”においても、すべての“権限”が、キリストに授けられたのです。“キリスト”はご自身で完結しており、“父の子”として、“父”のすべての属性を備えています。すなわち、“父の命”が“子”に授けられ、“子”はその“命”を現しているのです。

(ヨハネによる福音書 1:14、14:10-11、マタイによる福音書 28:18、マルコによる福音書 1:11、9:7、ルカによる福音書 10:22、22:69、フィリピの信徒への手紙 2:6-8、コロサイの信徒への手紙 1:15,19-20、イザヤ書 9:6、詩編 2:7-8、ヨハネの黙示録 1:8、19:16)

講話 11 – 94

気づき

“キリスト”は唯一の存在です。“父”の創造物の内におられる“父”なのです。自ら独立して存在しながらも、創造物から決して離れることなく、本質的に不可分な全体であり、多様な存在の中で全体であり、実存です。

(コロサイの信徒への手紙 1:15-17、ヨハネによる福音書 1:1-3、14:10-11、ルカによる福音書 10:22、17:21、エフェソの信徒への手紙 4:6、イザヤ書 40:12、45:18、詩編 139:7-10、エレミヤ書 23:23-24、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13-14,17)

講話 11 – 95

気づき

感覚を通して、触れたり感じたりすることができるものを見て、あなたたちは本物と言います。しかしそれらは、“実在”の影に過ぎません。“実在”とは、内側にあるものであり、目に見えないものです。実存は内なるものであり、外なるものは影なのです。

(コリントの信徒への手紙二 4:18、ヘブライ人への手紙 11:1、コロサイの信徒への手紙 2:17、ローマの信徒への手紙 8:25、マルコによる福音書 7:6-7、8:36、ルカによる福音書 12:15、16:15、ヨハネによる福音書 4:24、イザヤ書 29:13、66:1、詩編 27:8、51:6、箴言 4:23、ヨハネの黙示録 3:17-18、21:1-2)

講話 11 – 96

気づき

真理に無智であっために、これほどまでに多くの苦悩が、地上に蔓延(まんえん)してきました。すべての人が“真理”を理解するとき、すべての人は“霊”を見るようになります。“霊”こそが“実在”であり、外なるものは、内なるものの現れでしかないからです。内なるものなくして、外なるものは存在し得ないのです。

(コリントの信徒への手紙二 4:18、ルカによる福音書 11:40、12:23、ヨハネによる福音書 1:1、4:24、14:17、 ローマの信徒への手紙 8:6、マルコによる福音書 4:11-12、8:36、コロサイの信徒への手紙 1:16、創世記 1:1、詩編 51:6、139:7-10、箴言 4:23、ヨハネの黙示録 3:17-18、21:1-2)

講話 11 – 97

気づき

「“わたし”は“命”である」という言葉の意味を理解するためには、まず、神は“命”であり、“命”は神である、ということが理解されなければなりません。そうすれば、「“わたし”は“命”である」という表現によって、自分が何を言っているのかがわかり、「“わたし”は“命”である」という言葉の意味を理解していることになるのです。

(ヨハネによる福音書 1:4、11:25、14:6、マルコによる福音書 8:35、ルカによる福音書 9:24、12:23、コロサイの信徒への手紙 3:4、申命記 30:20、詩編 36:9、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13-14,17)

講話 11 – 98

気づき

“わたし”は“命”です。この言葉は真実であり、その意味を理解したとき、その表明には、とてつもない力が宿ります。

(ヨハネによる福音書 1:4、11:25、14:6、マルコによる福音書 8:35、ルカによる福音書 9:24、12:23、コロサイの信徒への手紙 3:4、申命記 30:20、詩編 36:9、ヨハネの黙示録 1:8、21:6、22:13-14,17)

講話 11 – 99

気づき

“わたし”は“命”です。神を中心とし、万生万物を通して“愛と癒やしと智性”の光を放射しています。

(ヨハネによる福音書 1:4、8:12、15:5、コリントの信徒への手紙二 4:6、エフェソの信徒への手紙 5:14、イザヤ書 9:2、60:1、詩編 27:1、36:9、箴言 3:5-6、ヨハネの黙示録 21:6、22:1-2)

講話 11 – 100

気づき

この“智性”は活動的であり、決して静止することはありません。常に、“父のご意志”を表現しています。もし、意識がこのことに気づかなければ、外界の事象に迷い込むことになり、無智な想念の中で、妄想を生じさせてしまいます。

(ヨハネによる福音書 1:1、5:19、マルコによる福音書 4:24、8:18、ルカによる福音書 8:10、12:2、ローマの信徒への手紙 12:2、コリントの信徒への手紙一 2:14、12:11、エフェソの信徒への手紙 2:2、箴言 3:5-6、イザヤ書 40:28、55:8-9、詩編 119:105、139:7-10、ヨハネの黙示録 3:20、22:17)