講話 1 – 71
気づき多くの人びとの心は、罪の重荷を背負い、打ちひしがれています。彼らには、世の無智と罪しか見えません。しかし、無智と罪を通して“キリスト”を見ることはできないのです。“神の愛”によってのみ、“キリスト”を見ることができるのです。“愛”である“父”の完全無欠の現れが、永遠に、“今”を生きている、“父の御子”なのです。
(ヨハネによる福音書 3:16、14:6-7、マタイによる福音書 5:8、マルコによる福音書 10:21、ルカによる福音書 6:45、ヨハネの手紙一 4:7-9、コリントの信徒への手紙一 13:2、コリントの信徒への手紙二 4:4、5:17、ヘブライ人への手紙 12:1-2、エフェソの信徒への手紙 2:4-5、イザヤ書 9:6、53:6、箴言 8:17、詩編 24:3-4、51:5,10-12、ヨハネの黙示録 3:20)
講話 1 – 72
気づき“わたし”は、“愛”ゆえに、“神の子”なのです。あなたたちもまた、“愛”によって、神の息子・娘になるのです。それ以外の方法で、本当の神の息子・娘になることは、できないのです。
(ヨハネによる福音書 1:12-13、マタイによる福音書 5:9、マルコによる福音書 12:30-31、ルカによる福音書 6:35、ヨハネの手紙一 3:1-3、4:7-8、ローマの信徒への手紙 8:14-15、ガラテヤの信徒への手紙 3:26、エフェソの信徒への手紙 5:1-2、箴言 3:3-4、詩編 82:6、103:13、ヨハネの黙示録 21:7)
講話 1 – 73
気づきあなたたちは、生まれながらにして、神の息子・娘なのです。なぜなら、“神の霊”である“キリスト”が、あなたたちには内在しているからです。あなたたちが“キリスト”を悟ったとき、あなたたちは、自己自身を知ることになります。そのとき、それを理解した心の内から、“愛”が洪水のように溢れるのです。このことは、まだ目覚めていない魂には、想像もつかないことです。
(ヨハネによる福音書 1:12-13、7:38、14:20、マタイによる福音書 5:14、ルカによる福音書 17:21、ヨハネの手紙一 4:7-8,16、ローマの信徒への手紙 8:14-16、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、コロサイの信徒への手紙 1:27、エフェソの信徒への手紙 3:17-19、コリントの信徒への手紙二 5:17、箴言 4:23、詩編 42:8、82:6、ヨハネの黙示録 3:20)
講話 1 – 74
気づきあなたたちの物質的な感覚では、善と悪の両方が、同じ力をもっているように思えるでしょう。しかし、それは死を免れない感覚による理論づけであって、“実在の真理”ではありません。
(マタイによる福音書 6:24、マルコによる福音書 3:24-25、ルカによる福音書 11:17、ヨハネによる福音書 14:6、8:44、ヤコブの手紙 1:17、コリントの信徒への手紙二 4:4、ヨハネの手紙一 1:5、4:4、ローマの信徒への手紙 12:21、創世記 3:1-7、イザヤ書 5:20、箴言 8:13、詩編 37:27、ヨハネの黙示録 3:15-16)
講話 1 – 75
気づき神には、善も悪も存在しません。神は今の今、完全無欠に現れておられるのです。もしあなたたちが、全知全能の神は善であるとしながらも、悪もまた存在すると言うならば、あなたたちの判断はまちがっているのです。遍在する善の中に、どのようにして、悪が存在できるのでしょうか。
(マタイによる福音書 5:48、ヨハネの手紙一 1:5、ヤコブの手紙 1:17、創世記1:31、出エジプト記 3:14、申命記 32:4、ハバクク書 1:13、イザヤ書 45:7、詩編 5:4、145:9、ヨハネの黙示録 21:27)
講話 1 – 76
気づきあなたたちの誤解が、悪の存在を、あなたたちに信じ込ませてしまっているのです。理屈を追うのではなく、“神の愛”が、あなたたちを通して表現されるままにしなさい。そうすれば、あなたたちを恐れさせ、真実の表現を妨げているものは、元々の無と化し、消滅するでしょう。よく考えてみなさい、恐れや悪を産み出しているのは、自分の想念でしかなく、恐れも悪も、“神の遍在”の中には、存在し得ないことがわかるのです。
(ヨハネによる福音書 14:27、マタイによる福音書 6:25-34、マルコによる福音書 4:39-40、ルカによる福音書 12:32、ヨハネの手紙一 4:8,18、ヤコブの手紙 1:13、ローマの信徒への手紙 8:6,38-39、12:21、フィリピの信徒への手紙 4:7、イザヤ書 41:10、箴言 3:5-6,25-26、29:25、詩編 23:4、27:1、119:105、ヨハネの黙示録 21:4)
講話 1 – 77
気づき“愛”は、唯一の実在であり、久遠の常在です。ゆえに、この“久遠の常在”こそ、いかなる制約も受けない、“永遠なるもの”であることを認識しなさい。
(マタイによる福音書 22:37-39、マルコによる福音書 12:29-31、ルカによる福音書 10:27、ヨハネによる福音書 15:9、ヨハネの手紙一 4:8,16、コリントの信徒への手紙一 13:8,13、エフェソの信徒への手紙 3:17-19、ローマの信徒への手紙 8:38-39、エレミヤ書 31:3、申命記 33:27、イザヤ書 40:8、箴言 8:17、詩編 103:17、136:1,23-26、139:7-10、ヨハネの黙示録 21:3-4)
講話 1 – 78
気づき闇は、単に“光”がないという状態にすぎません。心が“愛”に満ちているとき、魂に、闇は存在できません。“愛”は、世の“光”だからです。“真理”とは、世の“光”を探究することであり、“愛”こそが、“第一原因”なのです。この“真理”を発見するならば、すべてを発見したことになります。“愛”は、恐れを追い出すように、“愛”の本性に反するものすべてを、駆逐するのです。
(ヨハネによる福音書 1:4-5、8:12、14:6、マルコによる福音書 4:22、マタイによる福音書 5:14-16、ルカによる福音書 11:34-36、ヨハネの手紙一 1:5、4:18、コリントの信徒への手紙一 13:1-13、イザヤ書 45:7、箴言 4:18、10:12、詩編 18:28、27:1、119:105、139:7-10、ヨハネの黙示録 21:23)
講話 1 – 79
気づき恐れとは、理解不足による自我の思考から生じる念力であり、魂と体を貫流している生命の流れを、一時的にさえぎる影響があります。
(マタイによる福音書 6:25-34、マルコによる福音書 5:36、ルカによる福音書 12:32、ヨハネによる福音書 14:27、ヨハネの手紙一 4:18、テモテへの手紙二 1:7、フィリピの信徒への手紙 4:6-7、ローマの信徒への手紙 8:15、申命記 31:6、イザヤ書 41:10、箴言 3:25-26、29:25、詩編 23:4、27:1、ヨハネの黙示録 21:4)
講話 1 – 80
気づきあなたたちは、自分が“主”であることを知っていたら、恐れるでしょうか。“キリスト”が、あなたたちの“真我”であると知っていたら、恐れるでしょうか。神のみが存在し、神が “ご自身”を現されているのであり、神によって創られたあなたたちは、決して神から離れることができないことを知っていたら、あなたたちは恐れるでしょうか。
(マタイによる福音書 28:20、マルコによる福音書 5:36、ルカによる福音書 12:32、ヨハネによる福音書 10:30、14:10,20,27、ヨハネの手紙一 4:18、コリントの信徒への手紙一 6:17、ガラテヤの信徒への手紙 2:20、ローマの信徒への手紙 8:38-39、イザヤ書 41:10、43:1、詩編 23:4、27:1、ヨハネの黙示録 21:3-4)