講話 12 – 70

“わたし”が語っている、これらの講話は、あなたたちの心を、すべての“命の源”へと近づけているのです。

(ヨハネによる福音書 6:63、14:6、15:3、マルコによる福音書 1:15、ルカによる福音書 8:10-18、ヘブライ人への手紙 4:12、ローマの信徒への手紙 10:17、詩編 119:105、申命記 6:5、8:3、箴言 3:1-2、4:20-23、ヨハネの黙示録 3:20、21:6、22:17)

(編集者補足)
ここでも、『ディヴァイン・ヒーリング』という書物(講話)の特長が端的に示されています。“わたし”、すなわちイエス・キリストの本体、あえて言うならば、“真我”、“キリスト”、“神我”の語っている“言葉”、すなわち“命”、“命の源”は、すべての人の心(想念・ハート・意識)をこの本源である神へと導くものであるということでしょう。この12-70の関連聖句を聖書からいくつか選び、確認してみましょう。結局、『ディヴァイン・ヒーリング』と聖書が教えている本質は、なんら変わるものではないということがわかります。しかし、『 ディヴァインヒーリング 』のみ、あるいは聖書のみを読んでいても、そのことには気づかないと思われます。しかし、伝統的なキリスト教、キリスト教の教義、教会は、このような『ディヴァイン・ヒーリング』、また、聖書の解釈を異端とするでしょう。

命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネによる福音書 6:63)

イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14:6)

私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。(ヨハネによる福音書15:3)

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。(マルコによる福音書 1:15)

イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである。」「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」「灯をともして、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない。だから、どう聞くかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカによる福音書 8:10-18)

神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。(ヘブライ人への手紙 4:12)

それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。(ローマの信徒への手紙 10:17)

あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光。(詩編 119:105)

心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記 6:5)

そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。(申命記 8:3)

子よ、私の教えを忘れず、私の戒めを心に保て。(箴言 3:1-2)

子よ、私の言葉に思いを向けよ。私の語りかけに耳を傾けよ。(箴言4:20-23)

見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録 3:20)

「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から無料で水を与えよう。」(ヨハネの黙示録 21:6)

霊と花嫁が共に言う。「来りませ。」これを聞く者も言うがよい。「来りませ。」渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(ヨハネの黙示録 22:17)

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