From: nob on 2022-06-27 14:04:23
幸福とはシンプル、それはあること

我々は、存在している、ただ、それだけである

しかし、我々は、けっして満足せず、ああだ、こうだ、我々の○○(宗教、経済的豊かさ、国など)が一番正しい、誇るなどし、互いに分離してしまい、争い、最悪の場合、殺し合いまで発展してしまう
すべては、余計なもの、思想、習慣、教育、環境などに影響された心の束縛のためなのだ
これらの心の束縛が我々を不幸にしているのである

我々本来の状態、あることにとどまっているとき、心は自由自在であり、無限大の創造性、包容力を秘めている

それは、生命の公然たる秘密なのだ
そう、我々は、命なのだ

さあ、もういいではないか、すべての偏見を解き放ち、自由となるのだ、苦しみはもういらない

地道にブッダの八正道を実践するだけだ

自分の心を常に注意深く気をつけ、違和感を感じる物が湧いてきたならば、寄せ付けないだけでいいのだ
心の中で我々が構築したすべてのものはまやかしであり、幼子の心が本来の姿だからだ
いかに崇高な理想であろうとも、また、それが、本当か、否かはどうでもいいのだ

これらはすべて心の束縛となる、これを捨て去る、相手にしなければいいのだ

そうすれば、我々の心はだんだんと純粋になり、やがて、心のなかに、命の姿である愛が顕現し、それを知ることだろう





From: nob on 2022-06-26 09:15:05
幸福は我々の内にあり

みんなの幸せのために行動することは、実に美しいものであり、愛の法則に適ったものです
しかし、外なるものは、自分の外側にあるため、それによって我々が幸福になることはありません
幸福とは、我々の外側にあるのではなく、我々の内側にあるからです
ですから、真の幸福のために、我々は、内側を探求しなければなりません
つまり、幸福とは、我々自身の浄化に他なりません
ブッダが発見した、「八正道」は、我々自身を浄化する、恐るべき生き方です
日々、いや、一瞬、一瞬を浄化のために、生きることが、自分は、もとより、全ての生命のためになり、この世を最も浄化できる方法の一つだと感じています
なぜなら、命とは、一つだからです
一方で、私は、いろんな角度から、世の中を検証することの大切さを感じます、その検証をずっと続けなければならないと感じています
なぜなら、そこで立ち止まったならば、本当の真実を見落としてしまう、恐れがあるからです
最期の最期まで、検証を続けていかなくてはと覚悟を決めています
どこまで、できるか、見当も付きませんが、真剣に取り組んでいきたい、いや、そうせざるを得ないとハートはそう教えてくれています😄


From: M.M on 2022-06-26 08:29:10
あなたが静けさの中にあるとき、あなたの意識には“わたし”がいます。

DHで「静」で検索するとたくさん出てきます。今朝はその中の講話11-38が強く心に留まりました。

講話 11 - 38
『あなたたちが静けさの中にあるとき、あなたたちの意識には“わたし”がいます。』

何という言葉なのでしょう。静かさの内に在るならば私の中に主がおられると、イエス様おられると
、神がおられると。
そして更に『そして“わたし”の声に耳を傾けるように促しています。』と続きます。

主がそのように言われている。約束してくれている。有難いですね。であるならば静粛の内に自己を保たなくては、保つように努力して日々過ごさなくてはと、そう思いました。


From: nob on 2022-06-24 12:58:49
世の光

社会に対する行動が世に対する大きな貢献となると一般的にいわれています
私はそれを否定することはしません
それに意義を見いだし、心の浄化になるならば、大いに喜ばしいことだと思います
しかし、誰しも、同じ道を歩む必要はないし、違って当然だと思います
私は、違う意味で社会の貢献となればと考えます
それは、自分を浄化し、世の光となることです
それは、自分を含めた周囲を光として照らしていくことです
それができるか、決してわかりません
ですが、最初から、諦めてしまえば、なにかを為すことなどできるでしょうか
諦めず、精神一到何事か成らざらん、継続は力なり
最期の最期まで自分を浄化し続け、世を照らしていく
それに挑戦していくことが、自分の歩む道であると考えています
最期に笑えるような、そのような人生を全うしたい、ただ、それだけです(^_^)






From: M.M on 2022-06-22 06:51:11
祈り

祈りにおいていつも一番心掛けていること。
・本心からの祈り、決して心から思っていないことは言わない。
・神様に対する敬い、尊敬し、信じ、愛する気持ち。
・祈りの内容と目的。それが神様の御心に敵うものであるか。

涙ながらに祈れることは本当に幸せなことだと思います。ですがその後の行いが一番大切だと思います。祈りのように日々ありたいと思います。

※私が30歳から約10回程お世話になった栃木県喜連川市「瞑想の森 内観研修所」をつくられた故 柳田鶴声さんの絵を添付します。
(柳田先生は、貪百姓のせがれとして生まれ、幼いころに両親を失い、幼い兄弟の面倒をみ、ご自身が病気をされ、東京に出て新聞配達員となり、・・・やがて商品先物会社の社長となり、51歳で早期に退職したお金で内観研修所を開設、69歳で亡くなるまで悩める方の人生相談にのっていたように思います。筆舌にしがたい苦労の前半生と花開いた後半生だったように思い、まさに波乱万丈の人生だったような気がします。)


From: nob on 2022-06-04 10:52:09
なぜ実践が必要なのか

ブッダは言います
「いくら口でいいことをいかに述べようとも、実践しないならば、それは、他人の牛を数える牛飼いであり、まるで意味がないことである」
観念でああだ、こうだと、いくら考えて、議論しようと、それは、机上の空論であり、真実とはほど遠いものです
なぜなら、実践することで、いろんなことが見えてきて、段々と、わかってくるからです
実践しない知識は、ゴミ同然であり、全く役に立ちません、実践することによって、本当に腑に落ちたとき、知識が智恵となり、この世の荒波でさえ、安全に渡っていくことができるでしょう
だからこそ、我々は、我々がこの世に体験する全てを肥やしにしていくことが強く求められているのではないのでしょうか😀


From: M.M on 2022-06-23 07:43:24

実践についての高橋信次先生の言葉を思い出したので記載します。
実 践
「人は反省することによって前進する
 しかし反省の功徳は
 反省後の中道の実践にかかっている
 実践のない反省は
 観念の遊戯にすぎない」
           

返信

From: nob on 2022-06-04 08:14:28
全ては自分のため

ブッダのことば
「人がやったこと、やらなかったことを見るのではなく、自分がやったこと、やらなかったことを見なさい」他
イエスのことば
「(心の縛りをなくすため)あなたの敵を愛しなさい」他
これらは、全て、我々が幸福に生きていけるためのことばであることを知る必要があります

自我が我々の幸福を妨げているのです
それがわかったならば、周りの面倒なことに巻き込まれても、超然と生きていけるのではないのでしょうか😀


From: nob on 2022-06-03 06:49:18
イメージなく生きるということ

心の全ての投影が消え去ったとき、初めて人間らしい、生きるとは何かがわかります
他人を生きるのではない、本当の、自分を生きるということ
それは、まさしく真理の道です
そうなって、はじめて、いかなる苦難に出遇おうとも逃げることをしない、喜びに満たされながら耐え忍ぶことができるようになります
忍耐によって霊性が磨かれるのがわかるからです
我慢と、忍耐とは、似て非なるものです
我慢は、全てを受けるのではなく、一時的に避けているだけであり、限界がくれば、爆発してしまうでしょう
しかし、忍耐とは、全てを受け入れる、それは、受け入れることが、正しいと魂からわかるからに他なりません
淡々と、やってくることを見て、正しきことを為す、これほど、喜びに満ちたことなどあるでしょうか
この道とは、喜怒哀楽を超越したものです
「私はある」不動なる私、絶対的中心に留まり続けること、安穏なる道はこれ以外にないことを知るだけなのです😀


From: M.M on 2022-05-28 09:48:40
加藤秀視さんの動画をみて(つづき)

①「辛い!どうしたらいいか分からない? そんな苦しい毎日を抜け出した!たった1つの方法」
②「【元暴走族社長が徹底解説】あなたの人生がうまくいかない、意外な理由」
をみました。
 どちらも27分程度の短い動画ですので、興味のある方はおすすめです。

<瞑想について>
・①の動画の中で加藤さんは「たった1つの方法」→「瞑想」と述べています。
 加藤さんがどのような瞑想をされ、どのような指導をされているのかは全く存じません。瞑想とはそれぞれの人(レベル)よって大きく体験が異なり、行うには注意が必要だと思っています。
 加藤さんのお話をきいていると、とても大きな気づき、体験をされていると思います。また多くの企業等で指導もされ効果も出ているようですので、どのような指導をされているのか興味もあります。
 私自身、加藤さんのお話を聞いてもっと熱心に瞑想を通して豊かな神との交流ができるように努めていこうと改めて思いました。

<物事を見る目、考え方、捉え方について>
・教育やお金や物事全般に対する考え方に対して、加藤さんは「・・・その考え方おかしいでしょう?」と何度か言っています。→ 「確かにおかしい。でも私は今までそういう考え方をしていた。今もしている。そう思うところがたくさんあります(笑)」。私が今まで気がついていなかったことに気がつくことができました。これから改善していこうと思います。

以前教えていただいた「頭とハートをバランスよく活性化させなければいけない」という言葉を想い出しました。


From: nob on 2022-06-01 12:27:58

瞑想については、様々な段階があると思います
瞑想(禅定)の段階について、高いものになれば、なるほど、至福は強烈なのにも関わらず、ブッダがこれを捨てたのは、高い段階の瞑想のままいることはできず、瞑想から出たならば、元の木阿弥となり、なんの意味もなくなるからでした
後になってブッダは、解脱を得る瞑想に気づきます、その瞑想とは、我々の本来の姿である、常に「私はある」に留まる瞑想だったのではないか、と感じています
普段の生活をしながら、我々の本来の姿である「私はある」に留まる、生活といかにバランスをとるかが、重要だと考えています😄

返信

From: M.M on 2022-05-27 06:52:46
加藤秀視「初めて伝える壮絶な半生」という動画をみて

 縁あって加藤秀視さんという方の「初めて伝える壮絶な半生」という動画を観ました。まさに壮絶な人生でした。
 話されている対象は「何で自分はこうなんだろう。どうしてこうなってしまうだろう。」と何か悩んでいたり上手くいかないで行き詰っている人達を前に語っているものでしたが、観ながら「私もこちらに座っている人たちと同じだ。ずっと何年もそうだった。今もそうかもしれないが、少なくとも昔はそうだった」という想いがしました。そのお話の中で加藤さんは20代の後半頃、大切な友達等が死んだりして初めて、「原因は自分にあるのではないのか?もしかしたら自分が間違っているから上手くいかないことが起こるのではないか」と思った。それがきっかけだったというようなことを言っています。
 ふと昨日の朝、そう言っていたことを想い出しました。それと同時に「私の真理に対する取り組み方も間違っていないだろうか?」「仕事に対する考え方は間違っていないか?どうだろうか?」「お金に対する考え方は・・・?」「情欲(セックス)に対する考え方は・・・?」という想いが沸いてきました。「以前よりはずっとましな自分になったと思うけど根本的にすべてに対して何か間違っていないだろうか」という想いが。
 また以前教えていただいた「あなたの場合は今まで組み立ててきた宗教的な枠組みを取り払い作り直すくらいでちょうどいい」という言葉を想い出しました。
 昨日は仕事をしながら、沸いてくる一つ一つの想いや考えに対して都度、「この想いってどうなんだろう?」と一瞬みつめながら過ごしていました。

 「今までの自分が壊れていくような不思議な感覚がしています」

 主よ私の意志ではなく
 あなたの御心がいつも私の内にあり
 私を通して行われますように


From: nob on 2022-05-28 07:54:03

普段、我々は様々な人、物などに触れあい生きています
そういう中で、自分とは、どういう存在なのか、意識せざるを得ません
逆に言えば、自分以外の存在がなければ、自分とは何か、わからないのではないでしょうか
つまり、我々は、自分以外の存在によって、自分とは何かを、単に投影し、イメージしているだけではないでしょうか
我々の真の姿とは、全てのイメージ(世間、道徳、倫理、自分が拠り所としているもの、例えば、ケイシー、マハルシ、ディヴァインヒーリングなど)が消えた後に現れるもの、それこそが、本当の我々であるといえるのではないでしょうか😄

返信
From: M.M on 2022-05-28 20:56:31

「(他)人を見て初めて自分を認識することができる。逆も真なのかもしれない・・・」。nobさんのコメントを読んでいたら、ふとそんなことを思いました。ありがとうございます。

返信
From: nob on 2022-05-30 17:39:18

M.Mさん 誰もいない、物もない部屋に一人いることを想像してみて下さい
なにもなかったら、自分はなにかわからないという論理になりますが、どうでしょうか
なにもないけれども、自分は存在している、あるという意識はありますよね!
また、自分が水晶と仮定して下さい
水晶の前に赤い花を置けば、水晶は赤く、
黄色の花を置けば、水晶は黄色に見えます
本当は無色透明なのにです
これがイメージの正体です
外からの影響を受け、ある時は、自分は⚫⚫だと思い、またあるときは、××だと考える、これではいつも混乱してしまうばかりです
外の世界を見れば一目瞭然です
二元性の中で猛烈なスピードでいったり来たりを繰り返しています、外の世界とは正に嵐以外のなにものにも他なりません
我々がカオスなのは、こうした嵐の中で、なんの基準も、自分の中にないからなのではないでしょうか
その基準こそが、本来の我々である「あること」です
それは、絶対的中心です
周りがどんなに嵐のように混乱していようが、「あること」すなわち「不動なる私」に留まっていれば、なんら問題は生じず、静寂だけがあります
フルスピードで回転する駒を考えて下さい、中心は全くの不動であり、静かですね、中心から離れれば、離れるほど、遠心力が働き、混乱は増します
その駒の中心こそが、「あること」なのです
我々はただの存在、アブラハムが生まれる前より私はある、この意味について、よく考えてみて下さい😀

返信
From: M.M on 2022-06-03 09:41:35

「(他)人を見て初めて自分を認識することができる。逆も真なのかもしれない・・・」は何となくそんな想いがしたので意味も考えず投稿しまったんのですが、
 瞑想していると「自分を大切にする=人(他)を大切にする」全く同じだと深く思う時があります。また仕事で介護等で抱える人の悩みやニーズを引き出すような研修を受けていても、結局「人(他)について知る(又は知ろうとすること)」は「自分について知る(又は知ろうとすること)」と全く同じだと。そんなことを書きたかったのだと思います。

返信
From: M.M on 2022-06-24 12:52:17

 もう一度読んでみました。そのとおりだと思います。
 頭でそう思うことと、実際にそう在ることの区別を以前の私はできませんでした。それは実際に食べた体験がなく、どんなに本を読んでも、説明されても決して味がわからないことと似ているかもしれません。一所懸命に頭で捏ねくり回し理解しようと頑張っていました。
そう在るには、やはり神を求める強い気持ちと、謙虚さ、自分を常にふりかえる反省の継続、自分(内なる神)を信じること、そして神を自分を信じることができて初めて忍耐を持つことができるのではないかと思っています。
 そして初めて導かれることが可能となるように思っています。

返信
From: nob on 2022-06-27 16:47:13

M.Mさんにとって一番やりやすい方法でやることがベストだと思います
やれば、やるほど、高次元の助けがやってくることでしょう
そうなれば、さらに楽にできるようになれるでしょう
状況が変わってきたならば、やりかたを変えてみればいいのではないでしょうか

返信