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五官によって支配された意識が“キリスト意識”に気づくと、五官によって支配された意識は、“キリスト意識”の内で蘇ります。“わたし”は“キリスト”として、この世とこの世にあるすべてのものに打ち克ちました。“わたし”は肉体感覚、肉体的な想念、感覚というサタンに打ち克ったのです。あなたたちもそうしなければなりません。このようにしてあなたたちは、“天からの声”とは、“神の意識”であることを理解するようになるのです。(ダニエル書4章28節、マタイによる福音書3章17節、マルコによる福音書1章11節、ヨハネによる福音書12章28節、使徒言行録11章9節、ペトロの手紙二1章17節、ヨハネの黙示録10章4節)

人は自分の考えによって、自らの牢獄の壁を作ってしまいます。自分の考えによって、そのとおりに制約されてしまいます。あなたたちが抱くもっとも偉大な概念ですら、一つの制約にすぎません。「命とは何か」ではなく、「命とはこれだ」を示すことです。

具体的で形のある次元の被造物は、内なる目に見えない原因の結果です。あなたたちの肉体は、さらなる進化のための出発点としての役割を果たしています。その進化においては、永遠に存在する唯一の質料、力、“命”という“霊の全体性・統一性”に目覚めながら、実現されなければなりません。その現れが愛の臨在です。

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい。そしてあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。これが人間の拠(よ)って立つべき法です。

(新約聖書の)放蕩(ほうとう)息子のたとえ話の中に父の愛が表現されています。放蕩息子の耽溺(たんでき)、悔い改め、自分自身を取り戻すこと、すなわち本当の霊的状態の回復が示されています。最初に、息子は試練と苦難に見舞われます。父からいただいた相続財産を使い果たし、召使(めしつか)いになることを心に決めて帰ってきます。しかし父は、昔も今も自分の息子であるとして迎えます。(ルカによる福音書15章11-32節)

父の愛はとても大きく、息子が何をしようとも、父の愛は、その過(あやま)ちを消し去ってくれます。これはどんな人生においても、どれほど真実なことでしょうか。過ちは、真理に気づいたときに正されるのです。過ちは、それを通してあなたたちがその状況を乗り越え、自分自身を理解するための経験なのです。過ちは乗り越えたときに消えてしまうのです。真理は、最初からそうであったように、どんな制約も受けないままです。

赦(ゆる)される前に、悔い改めることが必要です。悔い改めは父の愛に気づいたときに、人の心の中から出てきます。そうして、彼は赦されるのです。そのとき人は、自分の真の霊的な状態を取り戻し、神の中にいる自分自身を自覚し、すべてのものに仕え、自分にしてもらいたいことを人にするようになります。あなたたちがこの放蕩息子のようになるときに、あなたたちの前に祝宴が準備されるのです。兄弟姉妹に対する愛をもって、今すぐにその宴(うたげ)に参加しなさい。愛によってのみ、父があなたたちのために用意してくださった祝宴に参加することができるのです。

これもまたあなたたちが地上で学ばなければならないことです。これまであなたたちは、悪いことをしたとあなたたちが勝手に裁(さば)いてきた人びとに対して、どれだけの愛の出し惜しみをしてきたことでしょう。それがどんなことであっても、あなたたちには関わりのないことなのです。すべては、父と子の間のこと問題です。このことを覚えておけば、人を批判することはやめ、この武器はまず自分に向けるようになるでしょう。(マタイによる福音書7章3-5節。ルカによる福音書6章41-42節)

まず自分の過ちに気づくことによって、他の人びとをよく理解できるようになります。(箴言3章34、ルカによる福音書6章39-42、フィリピの信徒への手紙2章3-4節)

あなたたちはこれまでとかく人を非難してきました。非難してはいけません、非難されないためです。裁いてはいけません、裁かれないためです。まず自分の目から厚板を取り除きなさい。そうすれば兄弟の目の小さなトゲをどう取り除いたらよいか、以前よりもよくわかるでしょう。(マタイによる福音書7章3-5節。ルカによる福音書6章41-42節)