わたしたちはどこから来て、どこに行くのか、
これに確信をもって答えられる人がいるのだろうか。
わたしたちにとって決して避けられないこと、それは“自己”という存在から逃避すること、
これだけは何人であろうと不可能だろう。
神は存在するのか、不滅の真理とはどんなものなのか。
人類の歴史にはキリスト(救世主)やブッダ(覚者)が現れ、真理を示している。
しかしそうした真理は、教えとなり、宗教となり、形骸化し、
人びとの生活や心からはかけ離れた存在となり、無力なものとなってしまう。
人びとの心を宗教で縛ることはできない。
人間の心の本質は、宗教や哲学を超えているからである。
人は、本質的には真理を理解しているはずだ。
人間にとって真理なるものは、あらゆる経験に先立って存在している“実在”なのではないか。
だから人は疑問を抱き、真実を探究するのではないだろうか。
真理とは唯一なるもの、時間空間を超越した絶対的で普遍的なもの、そして永遠なるものである。
しかし真理には、時間空間、陰陽、内外、表裏、光と影、作用反作用といった相対的要因も内包されている。
さらに、真善美、知情意、霊心肉、因縁果、天地人といった三位一体の展開をする。
そうした真理の営みが、およそ計り知ることのできない全宇宙の営みの実態なのだろう。
Door of 1-2-3 とは、真理なるもののこのような特性を踏まえ、
どのような宗教等にもかかわりなく、
キリスト的な“神・愛・祈り”を探究していくアプローチ、
ブッダ的な“法・悟り・瞑想”を探究していくアプローチ、
あくまでも人間らしく“心”を探究していくアプローチ、
という3つのドアを開け、自由に真理の探究を行っていこうという試みである。
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「いのちの言葉」(『ディヴァイン・ヒーリング』に日々触れることによって“意識”のあり方、すなわち“キリスト”の具現をめざす)
「やすらぎの言葉」(ブッダの法を中心とした“心と行い”のあり方を探究する)
「わたしの言葉」(“外にある教え”等に囚われることなく、“わたし” を探究する。“人間らしさ・自分らしさ”を探究するといってもよい。気楽な、自由なコミュニケーションの場でもある)
いのちのことば「キリストの道」
(“意識”のあり方が中心)
やすらぎのことば「ブッダの道」
(“心と行い”のあり方が中心)
わたしのことば「わたしの取り組み」
(“日々の実践”が中心)