講話 14 - 10

あなたたちの最奥かつ至高の“想い”は、絶対者(神)の意識の中にあります。

From: よつ葉 on 2018-08-14 09:55:54

ということは、自分の中の最高の思いと私たちの中の最高の思いと神の思いとは、同じということか。
同じというか、ひとつなのか。
ふたつ前の14-8に書かれている。「御心がわたしの中で行われますように」と愛と理解をもってハートのなかで言いなさい。やはり、愛と理解をもって…これがポイントか…

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From: 上原義高 on 2018-08-15 22:16:30

この辺の言葉は体験的に理解し、納得していく以外にないでしょうね。父の心は大天使でさえも知ることはできない計り知れないもの、というような表現もありましたね。
であるならば、わたしたちの現象我というか、個我というか、自分というか、そんなちっぽけな“わたし”が、神の思い、考えと同じであるはずがないとも感じてしまいます。
しかし、その“わたし”の正体は広大無辺であり、父であり、宇宙であり、時空を超えたありとあらゆるすべてを含んでいる実在であるということも信ずるに値することだと思います。

自分のなかに、そうしたありとあらゆる可能性が潜んでいるということを一歩一歩、一つ一つ発見していくということではないでしょうか。
理屈の上では、「自分の中の最高の思い、私たちの中の最高の思い、神の思い、言葉でどんなふうに表現しようとも、それらは一つの大生命の中に包含されてしまっている」と思います。「同じ」といってもいいし、「一つ」 といってもいいと思います。

ここでは、「あなたがたの一番奥の最高の思いは絶対者の意識の中にあります。」と表現されていますね、わたしたちの一番奥の最高の“思い(考え)”は、絶対者の“意識”の中にある、すなわち、絶対者も“意識している”ということです。「わたしたちの一番奥の最高の“思い(考え)”」というのも、意識されて初めて存在します。ということは、端的にいえば、わたしたちの最高の思いは、絶対者の思いでもあるということでしょう。
ここでのポイントは、わたしたちと絶対者が、本質的には一つであり、わたしたちの思いも絶対者の思いも同根、絶対者の願いはわたしたちの願い、わたしたちの願いは絶対者の願いでもあるということではないでしょうか。
ですから、
「御心がわたしの中で行われますように」と愛と理解をもってハートのなかで言いなさい。やはり、愛と理解をもって…これがポイントか…」というところでは、
御心とは、絶対者の御心のことであり、「愛と理解をもって…これがポイント」というところは、“絶対者に対する愛と理解”ということでしょう。
闇雲に愛と理解がなければ云々・・・というような、宗教的規範などを押しつけているのではないと思います。
宗教! そんなものは捨てたままにしておき、二度と近づくのはやめましょう(笑)

一歩一歩、体験的にしか理解できないということでは、最適なガイドとして、以下のように説明されています。これもすばらしいガイドですね、体験的に認識できるものにしかその価値は開示されないのでしょうが…。

講話 14-9
キリストは肉に現れている神です。わたしはこのことを繰り返して言います。これにより、あなたがたの心に浸み込んで行きます。このことが真理だと分かり、認識することで、あなたがたの内に“巨大な力”が生じます。キリストはあなたがたの中に、今現れている神です。

“巨大な力”とあります。
自分の中にそういうものの片鱗でも感じることができれば、まさしく、確かに絶対者の意識の中にあるのだろうと感じることができることがあると思います。

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From: よつ葉 on 2018-08-16 07:16:19

コメントありがとうございます。
ディヴァインヒーリング教?にしないように気をつけているつもりでしたが、今後も本当に気をつけます。

14-9あなたがたの心にしみ込んでいきます。→この表現にじんと来ました。感じる…これも、自然に…ですね。

ありがとうございます!

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From: 山本さん on 2018-03-07 14:39:25

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