講話 1 - 3

愛は鉱物においては親和力として現れています。愛は花々においてはそのエッセンスとして現れています。愛は動物においてはその性質の内に現れています。そして、人においては愛情として現れています。この愛の真の姿を悟るとき、あなたたちの存在すべてが愛によって満たされ、すべての肉体細胞が生命力に満たされるのです。

From: 上原義高 on 2018-04-13 02:50:09

何回読んでもなかなかピンと来ない、読めば読むほど、さまざまな意味で、不思議さが増してくるのがこの本です。

この本の誕生の経緯は、とても不思議なものです。

著者のM.マクドナルド・ベインさんも特別な能力をもたれた方のようです。

関心のある方は一度、調べてみられたらいいと思います。

ただし、日本語のサイトにはほとんどなく、英文のサイトで検索する必要があるようです。



そんな中でわたしが注目したのは、この本のもととなる驚異的な講話が、1948年の春、南アフリカのヨハネスブルグで行われたということです。



南アフリカといえば、世界でもっとも激しい人種差別・アパルトヘイトの国です。

現在でも、世界でもっとも危険な地域とされている場所で、2週間にわたって行われたある講話の記録 ―― それがこの本の内容であるということです。



南アフリカ共和国とは



広い国土と複雑な歴史により、黒人(ズールー族、コーザ族、ソト族、ツワナ族等)、白人(オランダ系、イギリス系等)、カラード(混血)、アジア系(インド人等)で構成されている。

アパルトヘイトという苦難の歴史を克服し、復讐ではなく和解を追求した南アの国民は、敬意をもって「七色の国民(レインボー・ネイション)」と呼ばれている。

返信

From: 上原義高 on 2018-04-13 02:58:42



ディヴァイン・ヒーリングという本は、もしかしたら、最高の楽譜、

究極的な楽譜のようなものなのかも知れません。

 

作曲家は、インスピレーションによって得た何かを、 音楽作品(曲)として、楽譜に表現し、遺します。

 

すぐれた指揮者や演奏家は、作曲家の得たインスピレーションを的確に読み解き、 感動的な音楽作品として演奏し、わたしたちを感動に誘ってくれます。

 

どんなにすばらしい音楽作品(楽譜)であっても、それを的確に読み解き、

演奏する指揮者や演奏者がいなければ音楽は生まれません。

 

もしかしたら、『ディヴァイン・ヒーリング』とわたしたちの関係は、 楽譜と指揮者・演奏家の関係に似たところがあるのかも知れません。

 

楽譜は、まちがいなく心身の癒やしをもたらす究極的な価値をもっている楽譜です。



しかし、指揮者であり、演奏家でもあるわたしたちが、 楽譜を的確に読み解くことができなかったら、すばらしい音楽は決して生まれません。

 

このとてつもない究極的な楽譜のような奇跡の本、それが『ディヴァイン・ヒーリング』です。

 

これを的確に読み解いていく努力には、生涯をかけてもいいのではないでしょうか、わたしはそう考えています。

 

その努力がもたらす恩恵には、期待をはるかに上回る計り知れないものがあると思います。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:01:33

最初にある文章(というか言葉)、それが以下です。



14回にわたって行われた講話の冒頭がこれです。

この言葉、この宣言によって、講話が始められています。



キリスト教国ではない日本人にはピンとこないという事情もありますが、それを差し引いたとしても、よくよく検討してみると、衝撃的な言葉、メッセージで始まっています。



・・・・・・・・



これを見ると、まさに “見ると” ですが(決して“読む”ではありません)、どのようにして受け止めればよいのか、衝撃を受けざるをえません。



通常の本ならば、読めばわかります。

ひととおり読めば、それで終わりです。

当然、書かれていた内容のあらましは理解することができます。



しかし、この『ディヴァインヒーリング』は、読んで理解することはほとんど不可能です。



読んでも読んでも、およそ「理解した・理解できた」とは言いがたい内容です。



『ディヴァインヒーリング』という本は、まさに “奇跡の書物” です。



不思議な本、驚異の本、すごい本、いろいろな表現ができますが、その誕生した経緯から、その内容から、まさに“奇跡の書物”という表現がぴったりだと思います。



 

わたしが今こうして書いている内容も、ほとんど誰の目にとまることもなく、ほとんど理解もされず、過ぎ去っていくことでしょう。それでよいのだと思います。



しかし、この書物が日の目を見る時が、やがてやって来ます。それは決して、そう遠くはない時期です。



そのとき多くの人々は、この書物の存在に感謝し、汲めども尽きないこの書物を通じて自分と自分の周囲に具現される“心身の究極的な癒やし”に、この書物で説かれている言葉の意義を深く自覚するようになるでしょう。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:02:47

この不思議な書物に付された『ディヴァインヒーリング』というタイトル、

これは著者(または通信の媒体者)であるマクドナルド・ベインさんが、

通信を行ってきたイエス・キリストの指示によって決められたものだと思われますが、

実に多くの示唆に富んだ、きわめて的確なタイトルではないでしょうか。

 

なぜ『ディヴァイン・ヒーリング』というタイトルが与えられたのか、

その意義をこの本の読者の一人ひとりが問うてみたらいいと思います。

 

 

霞ヶ関書房で発行されている本では、日本語で『心身の神癒』とされています。

 

「心と身体の神による(究極的な)癒し、

または、(究極的な)癒しは神によってこそもたらされる」という意味を表しているのでしょう。

 

なぜ“癒やし”なのか、なぜ“究極的”なのか――、

これがポイントです。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:03:53

もし第1話から第14話までの講話の内容を、心の内奥に問いかけながら、

その真意を深く理解しながら読むことができたならば、この『ディヴァインヒーリング』というタイトルに、わたしたちは疑問の余地なく賛同することができるでしょう。

 

しかし、わたしたちの心も感覚も、なかなかそうすることはできません。

 

現代の多くの人びとは、心も身体も疲れやすく、癒しを必要としているにもかかわらず、なかなかそれが得られないというジレンマに陥っています。

 

そもそも、真実の癒しを味わったことがあるという方は希有でしょう。

 

本当の癒しとは、心だけの癒しではなく、また身体だけの癒しでもありません。

 

心と身体は切り離せるような存在ではなく心身一如、色心不二の関係にあります。

 

心とは、意識(表面意識)だけでなく、無意識(意識下・記憶・潜在意識)までを含めています。

 

意識層よりも、無意識層の働き、影響の方が大きいことが次第に明らかになってきています。

 

また、身体とは、肉体のみではなく、肉体よりも繊細で微妙なアストラル体(感情体)、メンタル体(精神体)も含めて考えるべきでしょう。

 

そうした“心と身体”を癒すことができるのは“ディヴァイン”

――すなわち人為を超えた存在による以外にないでしょう。

 

真実の癒しとは、心を癒やすだけでなく、身体を癒やすだけでなく、

さらに、生活全体を癒し、生涯のすべて(過去・現在・将来)にわたってその恩恵をもたらすはずです。

 

さらには、個人を癒すのみならず、周囲にも大きな影響を及ぼすはずです。

 

そうした癒しは人為によるものではなく、まさに“ディヴァイン”からもたらされるものでしょう。

 

ゆえに“究極的な癒し”ともいえます。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:05:07

次に、『ディヴァインヒーリング』というタイトルと、 新約聖書との関係を考えてみたいと思います。

 

そうすることによって、 『ディヴァインヒーリング』という書物の際立った特徴が浮かび上がってきます。

 

わたしのようにクリスチャンではない人間、また新約聖書の内容に疎い人間にとっては、やや想定外の印象が残ります。

  

新約聖書のなかには、『ディヴァイン・ヒーリング』に示されているような

「心と身体の究極的な癒し」という説明は、実はわずかしか出てきません。

 

それは旧約聖書でも同様です。

 

また注目すべきは、『ディヴァインヒーリング』とは「心と身体の究極的な“癒し”」ですが、 実は「愛こそが究極的な“癒し”である」という説明は、聖書ではわずかにしか示されていません。

 

イエス・キリストの言葉や出来事に関して独自な解釈をしたヨハネの福音書、

手紙、およびキリストに会っていないパウロの手紙以外には、愛という言葉もほとんど出てきません。

 

 

しかし、この『ディヴァインヒーリング』では、第1話から第14話までの全内容が、 「愛は究極的な“癒し”である―― 心と身体のみならず、

生活・生涯全般(運命)をも癒すのが愛である」という主張で貫かれています。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:12:45

こうした「愛こそが癒しである」という見解は、 『ヒマラヤ聖者の生活探究』に出てくる以下の記載とまったく同様といえます。

 

以下、少し長くなりますが、実に素晴らしい内容なので引用させていただきます。

  

 

(『ヒマラヤ聖者の生活探究』1巻より)

 

生命の樹は神の楽園の真中、つまりわたしたち自身の魂のいと深きところにあります。

 

それから生え出て、完全に熟し切り、最も完全にして、 生命を与える果実となったものが愛なのです。

 

愛の真実の性格をよく理解している人々は、愛をこの世における最大のものとしています。

 

それはこの世における最も大いなる“癒し”の力でもあると私はつけ加えたい。

(渡辺注: ↑ この点に注目です)

 

愛が人の心のすべての要求を満たせないということは決してありません。

 

愛という神心原理を働かせば、あらゆる悲しみ、あらゆる病、あらゆる窮境、

人類を悩ますあらゆる欠乏を取り除くことができるのです。

 

愛の精妙無限なる影響力を正しく理解して用いれば、世界の傷は癒え、

愛より発する天的同悲という甘美な外套(がいとう)は、 人類一切の不調和、すべての無知、すべての誤りをぬぐい去ることができるのです。

愛はその翼を拡げて、人々の心の乾き切ったところや人生の荒地を探し出し、

魔術の如く人間性を取り戻し、世界を変貌します。 

 

 

愛が神であります。

 

 

(渡辺注: ↑ この点に注目です。ヨハネの福音書・手紙の内容に近く、

『ディヴァイン・ヒーリング』の主張と完全に一致しています)

 

 

それは永遠、無限、不変であり、およそ人間の洞察を超えた無限の彼方にまで至るのです。

 

その終わるところはただヴィジョンによって知り得るのみです。

 

愛はそれ自らの法則を成就し、その完全なる業(わざ)を完成して人間の魂に流れ込み、 一切の善きものとなって注ぎ出ずる口を求めています。

 

片意地や不調和な考え方によって妨げられさえしなければ、永遠に変わることなき神の愛の流れは、 平和を乱す不調和や醜悪というすべての現象を、

赦しという広大なる宇宙的愛の海に押し流しつつ、絶えず流れて行くのです。

 

愛こそは宇宙霊の完き果実であり、発しては人類の傷を包み、もろもろの国民をより親しく睦ませ、調和させ、世界に平和と繁栄とをもたらすものです。

 

それは実に世界の脈動であり、また宇宙の鼓動であります。

 

もし人類がキリストのみ業(わざ)を行なおうと望むのであれば、 大いなる遍在生命より出づる、この愛の流れによって満たされなければならないのです。

 

生きて行くことがあなた方には重荷なのですか。  

目前の問題に立ち向かうのに勇気と力とが要るのですか。  

病に悩んでいるのですか。  

それとも何者かを恐れてでもいるのですか。  

もしそうなら心を上に向け、あなたを導き給う神に祈りなさい。  

神の不滅の愛はあなたを包むでしょう。

 

恐れる必要はない。  

神は言い給うたではありませんか。  

『彼ら呼ばうに先立ちて我は答えん。彼ら未だ語らざるに我は聞かん』と。

 

平伏嘆願するのではなく、 必要な助けはすでに与えられていると知る理知的信念に満ちた祈りを以て、 大胆にこの恩寵の王座に近づくのです。

 

疑うなかれ。もっと積極的に出よ、すなわち神に求めよ。  

キリストのように、生ける神の子として出生した権利を要求せよ。  

わたしたちが『生き、動き、存在している』不可視の普遍質料の中には、およそ人の望み得るすべての善きもの、完全なるものがあり、 信念によって引き出され、具体化されるのを待っていることを知っていただきたい。

 

あなた方自身の偉大なる書(聖書)の中で、パウロが慈善という言葉ではなしに、 愛という言葉を使って「コリント人への書」第13章第1節で愛について語っているのを読みなさい。  

 

(以下、「コリント人への書第13章第1節」を挿入します)

 

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たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、 愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。

 

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、 愛がなければ、わたしに何の益もない。

 

愛は忍耐強い。  

愛は情け深い。  

ねたまない。  

愛は自慢せず、高ぶらない。  

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。  

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。  

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。  

愛は決して滅びない。  

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。  

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。  

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。  

成人した今、幼子のことを棄てた。  

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。  

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。  

わたしは、今は一部しか知らなくとも、

そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。  

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。  

その中で最も大いなるものは、愛である。

 

------------------------------------------------------------------------------

 

(以下、再び、『ヒマラヤ聖者の生活探究』1巻より) 

 

またソロモンを思い出してごらんなさい。  

彼はあの経験をした夜、光り輝く愛を宇宙大に拡げ、 我が為ならで、ひたすらに人のために奉仕せんことを願ったのです。  

このことによって、彼は前代未聞の富を得、その上、彼の求め得る力以上の長寿と名誉とを得ました。  

彼は、愛が必然的に英知を伴うことを、改めて認識しました。  

その愛が、その無限の富を引き出して彼に与えたのです。  

『ソロモンの時代にありては銀はものの数にもあらざりき』という聖所の言葉通りで、この愛の大王はそのコップまでが純金製だったのです。  

愛することは神の無限の黄金の宝の蔵を開け放つことです。  

もしわたしたちが愛するなら、わたしたちは与えずにはいれないのです。  

そして、また、与えることは与えられることであり、こうして愛の法則が成就されるのです。  

また、与えることによって、わたしたちは因果応報の誤つことなき法則を発動させます。  

与えれば、たとえ返礼など全く考えていなくても返礼を避けることは不可能です。  

なぜなら、あなたが与えた豊かさはあなたに返ってきて初めて法則が成就するからです。  

『与えよ、さらば与えられん。  

量りをよくして押し入れ、ゆすり入れ、溢れ出るまでに量りをよくして汝の胸に与うべし。  

汝の計るものを以て汝もまた計らるべし』とあるとおりです。  

もし永遠に愛の精神で働くならば、 神がわたしたちの心の中に臨在し給うことは間違いありません。  

神の生命と、愛と、英智と一つになるには、意識して神に触れることです。  

意識的に神に触れているということは、 今晩こうして豊かな料理がわたしたちに押しつけられるように、いやでも豊富が押しつけられることです。  

豊富であることは、本来すべての人にもれなく具えられている以上、 何もことさらに貧しくある必要はないのです。  

この本来の豊富さを悟れば、 人はいろいろな制約や限定の枠を遥かに超えるようになることはまちがいありません。  

豊富を思うに当たっては、細かいところまで考えることは一切捨てなければなりません。  

豊富という以上は、一々細かいところまで考えてはいけないのです。  

また、いつも豊かな気持ちでいるためには、常に心を拡げて『普遍なるもの』の中に遊び、 完全なる自由を大いに享受しなければいけません。  

しかし、この自由を放縦と思い違えてはなりません。  

なぜなら、わたしたちはすべての想念とすべての行為に責任を持たされているからです。  

また、わたしたちの意識がこのような自由に一瞬のうちに達するということは不可能です。  

自己限定の最後の痕跡を打ち破ることは、 一瞬にも成し遂げることができるでしょうが、 実はそのように完全な自由に到達するという輝かしい成功の前には、

準備が先行しているのです。  

すなわち微細な点に至るまでの準備が内部から成されていたのです。  

それはちょうど一つ一つの花弁が細かい所まで蕾の中で完成されているようなものです。  

準備が完全に整えば、蕾(つぼみ)はその萼(がく)の殻を破って、 美しい花となって咲き出します。  

ちょうどそのように、人が実相を開顕するには、まず自我の殻を破らなければならないのです。  

神の法則は今も昔も常に不変です。  

不変であるとともに慈愛でもあります。  

なぜなら、その法則は本来善だからです。  

わたしたちがこの法則に合致して生きて行くならば、それはわたしたちの健康、幸福、平和と落着き、成功の礎となります。  

もしわたしたちが完全に神の法則に従っているならば、 悪しきことは何一つとして起こるはずがないのです。  

病などは癒されるまでもなく、あらゆる点で健全です。  

人類の心の底には、故郷(ふるさと)を恋するある深い情があり、それは神の存在と、神が父なることをはっきり意識し、また理解して初めて癒されるものであり、その他の何ものをもってしても癒されるものではないことを、わたしたちは一体どれだけ理解しているでしょうか。  

この渇きが実は神を求める心情の叫びなのです。  

神を知るということほど、人間の魂が強く憧憬するものは他にはないのです。  

まことに『彼(神)を正しく知ることは永遠の生である』のです。  

多くの人々が、何かを成しとげたら、あるいはまた、限りある卑俗な欲望を満たせば、 満足や安らぎが得られるに違いないと思い、あれからこれへと常に移り渡って行く姿を見てごらんなさい。  

これらのものを追いかけて手に入れたところで、 結局、満たされるものではないことを思い知らされるのです。  

ある者は家や土地を欲しいと思い、ある者は巨万の富を望み、またある者は博識に憧れる。

しかしありがたいことに、わたしたちは、人間が外に求めているこういったものを、 実はすでに自分自身の中に蔵してることを特別に分からせていただきました。  

偉大なる教師イエスは、人類すべてにこの真理を理解させようとしたのです。  

そのイエスをどんなにわたくしたちは愛していることでしょう。  

イエスはあれだけの境地に達し得ただけに、 美しいまでに凛然(りんぜん)として卓越しておられます。  

わたくしたちはイエスの達したような内奥の至高所に到達した人々をすべて愛しています。  

わたくしたちはそういう人々をただその業績の故だけでなく、 実際の人柄のゆえにも愛しているのです。  

イエスは大悟の後は決して現象という外殻に安住しようとはなさいませんでした。  

彼は常にご自分の存在の中心、すなわちキリストなる実相に思いを致しておられました。  

イエスにあっては、キリスト、すなわち『中心の火華(ひばな)』すなわち、 今なおすべての人々の中核に生き、存在している内なる神が現れ、 物質(=肉体人間)を完全に統御していることを明示されたのです。  

イエスはこうしてあの力強いみ業をされたのであって、あなた方とどこか違っているところがあったからではないのです。  

また、別に今の人々以上に強大な力を持っていたわけでもなかったのです。  

イエスは神の子であるが、わたしたちは神のただの僕にすぎないというものではないのです。  

イエスは現在のすべての人々と同じ、一人間だったのです。  

ちょうどあなた方が誘惑や試みのために苦しんだように、イエスもまた悩み、誘惑を受け、試みに遭いもされたのでした。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:15:07

この本の不思議さ、謎、奇跡、威力、すばらしさ等々を語ることはほとんど不可能だと思います。そんなことは誰にもできないでしょう。あまりにも凄すぎます。

 

“Divine Healing of Mind and Body”

 

というタイトルからして、まさに驚異のタイトルです。

直訳するならば、『心と体の神の癒し』ということになるでしょう。

意訳するならば、『心と体の“究極的な”癒し』ということになるでしょう。

 

“癒し”が出てきた背景について前回の投稿でふれていますが、このタイトルは、“究極的な癒し”は神によってもたらされるということを表現しているのでしょう。

 

人種を問わず、民族を問わず、国を問わず、宗教を問わず、どんな前提もなしに、どんな人の“心と体”も、神癒の対象となっています。すなわち、超宗教の立場に立っているといえます。

 

この本のタイトルに、“Divine Healing of Mind and Body” というタイトルが付けられた意義、その背景を探った方がいらっしゃるでしょうか。

 

これをある方は、「わからない、ピンとこない」という理由から、安易に変更し、『イエス・キリストの新復活』としています。

 

そして14の講話に、原書にはない恣意的なタイトルを付けています。

 

どこにも、“Divine Healing of Mind and Body” を示唆するタイトルもサブタイトルもありません。

このような軽率な行為は、決して行ってはならないでしょう。

マクドナルド・ベインさんがイエス様の指示によって、この本のタイトルを、

 

“Divine Healing of Mind and Body” とされたのには、まだまだ深い理由があります。

 

わたしたちは、謙虚にそうした事情を探究していくべきです。

新約聖書は、マルコによる福音書から始まります。

マルコによる福音書によって、新約聖書の扉が開かれました。

 

マルコによる福音書が、2000年以上にわたる人類史上希有な新約聖書の突破口をこじ開けたのです。

このことの意義は、どれだけ強調しても強調しすぎにはならないほどの重要な意義を含んでいるでしょう。

 

マルコによる福音書は、まさに人類の歴史・世界の歴史における、“THE NEWS”を伝えました。

 

どんなニュースかというと、イエス・キリストというたぐいまれな奇跡の方の誕生、そしてその方に伴うさまざまな驚くべき出来事の数々、そして十字架、さらに復活一ー。

 

それは「旧約聖書で予言されていたことが成就したのだ」ということを、

簡潔に、端的に、事実をありのままに伝えています。

 

最初にまとめられた福音書、イエス・キリストという方に関する記録、これが「旧約聖書で予言されていたままに成就した」――

それを伝えることこそが、マルコによる福音書に課せられた役割でした。



しかし、マルコによる福音書は、新約聖書の最初には位置づけられていません。

 

最初に来ているのはマタイによる福音書です。

 

わたしはこのような文書を、一切の先入観なしに、また、どんな参考書なども読むことなく、もっとあからさまなことを言えば、新約聖書すらまともに読んだこともなく書いています。

 

もっとも、後で自分が感じた内容について確認することはあります。



したがって、まちがっていることもあるかも知れません。

ご指摘いただければ幸いと考えています。

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:17:59

アインシュタインが、死後20年間は内容を公開しないという指示を与えていた文書の中にそれはありました。



わたしが驚いたのは、『ディヴァインヒーリング』の第1章は愛についてのみ語られていますが、その冒頭は、カソリックもプロテスタントも、およそ全キリスト教会が看過することができない言葉、すなわち、以下で始まっています。

「神は愛です。愛は神です。」



キリスト教では、「神は愛です」とは言います。しかしこれをひっくり返し、「愛は神です」とは決して言うことはできません。

逆も真なり、にはできないのです。

そんなことをしたら、宗教としてのキリスト教(パウロ教)は瓦解してしまうからです。

そもそも、新約聖書の福音書の中には、「神は愛です」という言葉はありません。

この有名な言葉は、ヨハネの手紙の中に出てくるのみです。

そのヨハネの思想は、他の福音書とは際だって異なっています。



・・・・キリスト教では、神は愛ですが、愛はキリストのみです。

神=愛=キリスト これがキリスト教の普遍的な真理です。

そして、キリストとは、この点が最大の課題になるのですが、キリスト=神の一人子=神の子=人の子

たった一人の原罪を免れし神の一人子であり、ナザレのヨゼフの妻マリアに処女懐胎で産まれた人の子でもあり、

この人にして父なる神の一人子を通じてのみ、お釈迦様もモーゼもマホメットもアメリカ人も日本人も、縄文人も弥生人も、平成人も、未来の宇宙人も、

決して救われることはありません!

それは絶対に保証します、これだけは隠そうが公にしようが外せない、それがキリスト教の本質です。



愛が神であるとしてしまったら、キリストを受け容れるものと受け容れないものの分離が成り立たなくなり、汎神論、汎“愛”論に陥ってしまうからです。



ところが、『ディヴァインヒーリング』冒頭にある言葉とまったく同じ表現がアインシュタインの文中に見られるのです!!

それだけではありません!!!!



このアインシュタインの文書に著されている内容は、『ディヴァインヒーリング』の第1章と完全に一致した見解となっています!



以下、アインシュタインの死語20年間、秘密とされていた文書を引用します。 

 

アルベルト・アインシュタインから娘への手紙

1980年代の末、有名な天才アインシュタインの娘リーゼルは、父から彼女に宛てられた1400通の手紙を、父親の死後20年間は内容を公開しないという指示を添えて、ヘブライ大学に寄付しました。

これはリーゼル・アインシュタイン宛ての手紙の中の1通です。

アインシュタイン

「私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを社会が受け容れられるほど進歩するまで、お前にこの手紙を守ってもらいたい。

現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は愛だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。

愛は光だ。

それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。

愛は引力だ。

なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。

愛は力だ。

なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。

愛は展開し、開示する。

愛のために私たちは生き、また死ぬ。

愛は神であり、神は愛だ。

この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。

これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。

それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。

愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。

「E = mc2」の代わりに、私たちは次のことを承認する。

世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。

もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。

恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。

私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄(クイントエッセンス)だからだ。

私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。

恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ」。

お前の父親 アルベルト・アインシュタイン

返信
From: 上原義高 on 2018-04-13 03:19:42

(知的な)理解と感情よりも深いところにある“感動”とは一体なんでしょうか?



そうした“感動”の正体とは、一体なんなのでしょうか。



人はこれに生涯従います。



これに命をかけることもでき、これのために死ぬこともできます。



これに“愛“などという言葉を安易に使うのはタブーと言えます。



それは、感じるもの、現すもの、仕えるもの、生きるものであって、語るものではないからです。



安易に語ることにやましさを感じるのはそのためでしょう。



深い感動には、感情が入り込む余地などない畏敬の念、荘厳さがあるのではないでしょうか。



感動=すなわち感情の働き、という先入観には、まちがった理解もあると思います。



深い感動には、有無を言わせない圧倒的なエネルギー、悟りと言ってもよいような確信が潜んでいます。



感情は揺れ動き、過ぎ去るものです。



しかし、深い感動は確固たる確信、予感となり、人生にさまざまな展望を与えてくれます。



人は絶望のうちに、深い感動に達し、絶望を喜びに変容させることができます。



ベートーベンの生涯は、まさにそれでした。



ベートーベンの絶頂期は、目も見えなくなり、耳も聞こえなくなり、死を決意した後に迎えることができています。



そして人類史に不滅の多くの作品を遺しました。



ディヴァインヒーリングには、音楽の正体は、神の愛であり、叡智であると記されています。



言葉を本で読み、頭でどんなに理解しても、本当の感動には至らないでしょう。



そうした点で、感じたことがありましたので、ここにも書いておきます。



以下は、他に投稿したものです。



あけまして、おめでとうございます!

昨年はさまざまなご支援、ご協力をいただき、心より感謝しています。ありがとうございます。

本年も変わらぬご指導、ご協力をいただけますよう、何とぞお願いいたします。



昨日から今日にかけて、東京文化会館で、ベートーベンの交響曲全てを一挙に演奏するという催しに参加していました。

昨年に続き、素晴らしかったの一言です!

神とベートーベンが、日本でこの企画を始めたのだと思えてしまうほどです。

コバケンの今日の指揮もすばらしく、奇跡的な超名演の第九、続いて3番、5番、6番、7番といったところでした。

特に第九では、多くのインスピレーションがやってきました。

聴き慣れている第九ですが、第九にはまだまださまざまな恐ろしいほどの可能性が秘められているようです。

今後もこの演奏会には参加できる限り参加するつもりです。

クラシックは集客が大変だと言われますが、珍しくこの演奏会はほとんど宣伝なしで、チケットを取るのも大変です。大半がリピーターさんで売り切れてしまいます。



音楽を芸術にした初めての作曲家。

克己、堅忍不抜の精神、自我の克服。

全ての人間が、あらゆる苦難や不幸を通じ、

完全なる喜び(ベートーベンの言う喜びとは、完全なる自由・解放のこと)に達し、

一つになることができるーーこれが驚くべき第九のテーマです。



現代でさえ、夢の夢、夢想でしかないそうした理念を掲げ、一切の妥協を排して創造した第九の魅力には、恐ろしいほどの深みが演奏解釈としてもありそうです。

昨日のコバケンの演奏では、そうした謎の深みをいくつか垣間見ることができました。

ベートーベンのような曲を作ってみたいとの思いで作曲家をめざし、ベートーベンを振ってみたいと、今度は指揮科にと、藝大に二度も入ってしまったコバケンならではのベートーベンに対する畏敬と共感に溢れた演奏でした。

特に、3番2楽章が始まったすぐ後のコントラバス、チェロの恐ろしい響かせ方には驚きました。

今までこんな風に響かせた演奏は初めてだったからです。

コバケンでもここまで強調したのは初めてです。

それがきっかけとなり、第九の3楽章4楽章に登場する同じような響きに、ベートーベンの空恐ろしい威厳を見たような気がしました。



日本で第九が特別な作品として親しまれ、年末の恒例行事になっていること、さらに12月31日にベートーベンの全交響曲を聴くことができ、ベートーベンが探究した真実の秘密に多くの人々が気づき始めるということに神意さえ感じています。



皆様にとってすばらしい良き年となりますようお祈りいたします。

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