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本も言葉も文字も、それ自体には何の価値もありません。それらは、大神霊が目に見えないものと思考を結びつける手段、すなわち感覚の領域を貫通する手段として言葉を使っているときにのみ、価値を持っているのです。

このように言葉というものは外側の殻に過ぎませんが、その内側に極めて高価な真珠を隠しており、あなたたちはそれを見出すことができます。あなたたちが自分の想いの内にある言葉を採り上げ、例えば「わたしはある」、「わたしは命である」と言うとき、これらは肉体の五官で表現された言葉ですが、これらの言葉は、永遠にして常在である霊的な状態に蘇ることができます。

従って、あなたたちが聖なるものとしている聖書のリーディング(購読)では、あなたたちは言葉を用いて、それらを霊的次元に蘇らせることができます。五官の眼を通して見られ、五官に縛られている想念によって読まれても、先天的にあなたたちに内在している大神霊の力によって、あなたたちはそれらの言葉を、死すべき肉体人間の理解を超越した霊的次元に蘇らせているのです。

聖書は、命の律法と、その正しい用い方を教えるために、大神霊の導きによるインスピレーションによって書きつがれてきたものです。

それゆえに、わたしは律法を滅ぼすために来たのではなく、律法を成就させるために来たのです。生命を充実させるために、それが人間の身体にも現れるものであることを示すために来たのです。子の中に生き、子を通して御自身を表現され給う無限の父の栄光を、肉身にも現すことができる(不死不滅)ということを証明するために、キリストはやって来たのです。

ご自身の内に命をもち給う父は、その同じ命を、子を通して現されました。ゆえに、子は父の命、父のご意志を現すのです。

わたしの言葉は生き、力強いですが、しかし蜜よりも甘いのです。

父がわたしにくださる言葉は、世の人の理解を絶した神の愛が生きている言葉です。その言葉は生きている力です。なぜなら父の愛が、いつでも共にあるからです。

あなたたちの誰であっても、大神霊の力を感じ、それをはっきりと認識し、それによって語ることができるとき、あなたたちの語る言葉には力があります。天においても地においても、すべての力が“わたし”に与えられているのです。

父の光から隠れている被造物などありません。父の目の前ではすべてのものが裸であり、さらけ出されているのです。