講話 7 - 90
あなたたちが“神の想い”の中にあり、“平安”な状態にあるとき、そこには「“光あれ”。すると光があった」という“創造原理”があります。(創世記1章3節)
From: よつ葉 on 2018-08-08 11:47:41
平安の状態にあれば…とあるが、平安の状態を求めてしまうが、むしろ平安の状態が先決?ということだろうか…?
From: 上原義高 on 2018-08-08 19:10:52
あなたがたが神の心の中にあって、そのような平安の状態であれば、そこには、「光りあれ。こうして光があった」という創造の原理があります。
これも真理とはどのようなものなのか、その秘密を説明していますね。
神の心の中にあれば平安の状態となっている。
そうした状態では、「光あれといえば光がある」、そうした創造の原理がある、ということでしょう。
平安の状態とは、沈黙の状態であるともいえるでしょう。
沈黙の状態はまた、自由自在な創造の状態でもあるということでしょう。
すなわち、神、平安、沈黙、創造、皆一つの状態を表現しているのではないでしょうか。
それはまた、“自由”ということでしょう。
完全なる自由、大いなる自由、なにものにも依存することなく、なにものにも影響されず、どんな自ら以外のなにものにも制約されない完き自由、これが真理の本質であるということではないでしょうか。
平安の状態、すなわち沈黙とは、求めるものでしょうか。
それはすでに時間・空間を超えて“在る”ものなのではないでしょうか。
求めるものでも、先決でもなく、ただ“在る”――そんな理解をわたしはしています。
From: よつ葉 on 2018-08-09 10:08:15
先決でもないのですね…
神、平安、沈黙、創造 、皆一つの状態を表現している…ただ在る…なるほど…
ありがとうこざいます。